初めての全国ネットになったKちゃんのテレビ番組。
18歳の選挙権についての報道番組だ。
最終編集は東京のキー局で行なわれる。
キー局のプロデューサー、ディレクター、ナレーター。そしてKちゃん。付き添いにウチの報道部長…。
リメイクが完成したのは深夜23時。納入期限ギリギリ。
全員で最後に見直す。プロデューサーが最後に…
「いいんじゃないですか」。
スタッフが「そうですね」「お疲れ様でした」と続く。
が…。なにも言わずに俯いたままのKちゃん。
「あの…」とKちゃん。
「あの…。最後の締めのコメントが嫌なんです。なんか上から目線で…」
スタッフが凍る。
付き添いの報道部長は内心「空気読まんかい。みんな最終の電車もあるんやで。
プロがOK出しているし、納入期限1時間前やし…」と目を閉じる。
プロデューサーが微笑んで一言。
「そうですか。これはあなたの番組です。では、あと30分しかありませんが、やり直しましょう。コメントを考えてください」
ほっとする報道部長。
Kちゃん。僕はとても誇らしいよ。
ラジオディレクターを志望して入社してきた君が。
今は別の世界でこうしてもがいている君が。
今朝も鍋焼きうどんしか食べれない情けない体調の僕だけどさ。
24時間TVに連動して毎回やっているラジオ特番「青春シャッフル」から・・怒涛の24時間でした。
ラジオは結局、基本に帰ればいいだけのことではないのか?!・・とか、あれこれ考えることの多い時間でした。
スタジオの松沢はつみさんとのツーショット写真は「IGY」のドナルド・フェイゲンを意識して首を傾げているんですが、誰も気付かなかったみたい(笑)。
傾けてる方向が違うしな・・タバコも持っていないし。
僕のやっていること。考えていること。・・・は、だいたい他人に気づかれず終わっていきます。ラジオっぽい人生です(笑)。
このタイミングで、横浜の弟ファミリー一行が旅行にやってきていたので、昨夜は「24TV」の終了後、その接待を深夜までしていました。
従って、まだフラフラしています、
フラフラしながら月末の一番大事な会議で今日は終日過ごします。
エスケイプできない朝は、写真に残らない”日常”なのです。
子規記念博物館で行われている企画展『子規の夏休み』をちょいと観てきました。
僕の知っている帰省回数より1回多かったです(笑)
この辺がミーハー制作者と学芸員の基本的な違いですね。
会社に帰ってきてラジオスタジオ覗いたら、小林美菜ちゃんとCha-kaが『女子部屋 ワコールNight』の収録をやっていました。
※ピンクのキャップがCha-ka
東京で芸能活動をしているCha-kaの帰省回数を僕は知りません。
先日会った時に、聞いたよ『ONE DREAM2(新しいアルバム)』・・と言ったら、
「本当ですかぁ?」と。
疑うなよ。お前に嘘ついても僕にメリットないだろ。
「じゃあ、どの曲が好きですかぁ?」と言われて、即答できなかった僕(笑)。
「やっぱり・・ちゃんと聞いてくれてないぃ!!」と拗ねた顔。
あのね。カップルの痴話喧嘩じゃないんだからさ。社長に向かってその言い方やめなさい(笑)
ネットラジオから「アメリカンモーニング」(ランディ・ヴァンウォーマー)が・・
ごめん。おっさんの一番好きなのはこの世界みたい・・。
※『Cha-kaと美菜の女子部屋』毎週月曜~金曜 23:50-24:00放送
毎週金曜日は【ワコールNight☆】
※Randy VanWarmer『アメリカンモーニング』(原題『Just When I Needed You Most』)1979年
会社の本棚は使い始めて2年くらい。
この中で西沢實さんの「ラジオドラマの黄金時代」は古い本でずーっと捨てれずにいる名著です。
24歳の冬。
当時担当していた「プランタンDJスポット」の年末企画として「午年ぐっばいスペシャル」というのを出しました。
自転車に乗って1時間でプランタン各店をめぐるという生放送です。
ずーっと自転車に乗って喋り続けたい。電波の切れるところがあったらスタジオからレコードをかける・・・みたいな。
基本、全編おしゃべり。
上司の一人が「君は漫談家か!?アナウンサーだろ?」と後ろ向きだったのですが、営業さんが「それはいいねぇ」とまとめてくれた特番。
・・・なんで朝っぱらからこんなことを思い出すのかというと、週末のラジオ特番「和彦・はつみの青春シャッフル」(土・23時30分~午前3時 生放送)で、最初の30分音楽なしでしゃべり続けるってのは無理だろうか!? ・・と考えたからです。
僕的にではなくて、リスナー的にそれは「退屈」だろうか? いや、僕の内容次第か? ・・・とか。
“やってみよう”と思い立つことが、青春。もっと大袈裟に言うとそれが黄金時代ならば、そんなこと出来ないかなぁと妄想しているだけでもいいか? ・・・とか。
※「青春シャッフル」はスタジオ開放です。24TVの募金ついでにでも寄ってください。あなたの青春の一曲のリクエストを受け付けています。現場では随時抽選して、皆さんをマイクの前にお呼び致します。
ラジオ制作の最前線で部長をしていて、燃えに燃えていた10年くらい前。
具体的には旧社屋のラストデーの頃。
その頃の部下ちゃんの一人、橋口裕子(旧姓。僕は今だにこっちで呼んでいます)ちゃんがランチタイムに遊びに来てくれました。
ま、戦友みたいなもんですね。
彼女にとってはお墓参りに僕にお線香を上げに来た感覚かも・・・ちがうかぁ(笑)。
僕が入社した頃に生まれた世代ですから、ま、娘みたいなモンです。
橋口裕子ちゃんとの一番の思い出。
ちょうどテレビがアナログからデジタルに変わる時。
愛媛の各局はそれぞれデジタル・マドンナを選んで、NHKも一緒になって「デジタル時代到来」のPRをしていました。
彼女はラジオ局にいながら、当社のデジタル・マドンナでした。
(その他にも、あちこちのミスコンに、でろでろと僕は彼女を焚きつけていました)
後年。
東京で行われた彼女の結婚式の時。
新婦側の代表祝辞を言われて「県内のデジタルマドンナのうち、ウチの橋口が一番美人だと思いました・・」
・・を枕詞に話をしようと思って、マイクに立ったら、
なんと目の前のテーブルの出席者が全員、その時の他局のデジタルマドンナ達!! (爆!) (爆! ) ( 爆!)
流石の僕も、一瞬うっ!とフリーズしたことを覚えています。
結婚式の後。二次会はご遠慮して、神宮球場に「ヤクルト対阪神」戦を観に行き、9回裏。球児が登場。
三者連続三振でゲームを締めてくれて、スカットしたことを忘れません。
橋口裕子ちゃんは3歳の娘がいる今も相変わらず綺麗なのに、球児のストレートはあの時と比べて、随分スピードダウンしました。
流れた時代の「愉しさ」と「残酷性」が思い出の中に同居しています。
※えぐさゆうこ(旧姓 橋口裕子)
屋久島古謡や奄美大島の島唄、吐噶喇列島の古謡など南西諸島の島々の歌を歌う歌手として活動