『やったぜ! カム・トゥゲザー!』

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By田中和彦

伊達秀宗一行がさ、長浜から肱川を遡ったあと、今の国道56号で宇和島に入府して来たんだ。

その行列をさ、ヘリコプーターから架空実況でリポートするわけさ。

リポーターが「伊達が宇和島にやってきました!」と叫んだ後、ビートルズの「カム・トゥゲザー」が流れてきて、番組のタイトルコール・・っていく訳さ。

・・・宇和島400周年でさ。こんな感じの作品、いいと思わない!?
と、妄想企画を話していたら、その通りディレクターのOくんがラジオドラマを作りあげて、今年の民間放送連盟賞・中四国審査会で最優秀を獲得し、全国に駒を進めてくれました。

O部長

南海放送ラジオの伝統を守ってくれたことにまずは感謝。
小姑のようにうるさい僕の細かい注文を全部素直に反映してくれた能力も素晴らしい。

「田中さん。もしも、とれたらギャフンと言ってください」

「連盟賞はさ。そんなに簡単じゃないんだよ」
で。
獲れたもんだから、彼のメールアドレスに一言、お祝いのメッセージを送っておきました。

「ギャフン!」

伊達宗城

※写真は幕末の宇和島を全国から注目させた伊達宗城。

『奇跡・・と簡単に言うけれど』

In Categoryヒコヒコ日誌
By田中和彦

 

瀕死の状態だった今治タオルがブランドとして完全復活したのはご存知の通りです。

奇跡の復活の裏にはクリエイティブディレクターの佐藤可士和(かしわ)さんの存在と、当時の組合長さんたちの「先見性」にありました。

そのうちのお一人Fさんにアポを頂き、これからお話を伺いに今治に参ります。

すごい人だぁ・という本の中のイメージなので、生まれて初めて女の子とデートする時みたいにすごーく、緊張しています。
(Fさんは偶然にも中学・高校の先輩でした)

今治タオル

昔はタオルと言ったら銀行預金のオマケみたいなイメージでしたが、今や「今治タオルは」贈っても贈られても最高に嬉しいものになりました。

タオル会社の数やその生産量が、全盛期の五分の一のなって「産地」として立ちいかなくなった時、彼らが何を考え、何をしたのか・・本を読んで概要は掴めましたが、やはり生の声で話を聴きたくなったのです。

まるで、ゼミ学生ですね(笑)。

(といっても、僕は学生時代サークル活動一本で、ゼミをとっていませんでした。←とんでもない不良学生です)

「ラジオ」という媒体の置かれている現状と、危機に瀕したあの頃の「今治タオル」がちょっと似ています。そんなふうに考えているは僕だけかもしれませんが・・・

それはさておき。

緊張感からか、さっきから何度もトイレに行っている中年男がここにいます(←うぶい!! アホや!!・・笑)

田中社長

『名監督の一言』

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By田中和彦

1975(昭和50)年。赤ヘル軍団が優勝した時の広島カープの監督。
古葉竹識(こばたけし)さん。

古葉監督と田中社長

「79歳になりました」と相変わらずのジェントルな話しっぷり。

「見えませんねえ」と野球経験は高校野球実況だけなのに(笑)、なぜか対等に喋ってしまう僕。 ←無礼者です。

高橋慶彦や山本浩二の「師匠」なのに・・。

今は大学野球(東京国際大学)の監督をしていらっしゃる。

「古葉さん。まさかノックはされないんでしょ?」
「やっていますよ。監督ですから・・」(恐れ入りました・・)

球界では長嶋茂雄さんと同期生。デビューも監督になった時も一緒。
こうしてちゃんとお会いするのは12年振りでした。

“カープ愛”そのままに今日も赤いネクタイでいらっしゃる。

「どうしましたかねえ。今年のカープ!?(笑)」
「いや。今年のセ・リーグはわかりませんよ。9月まで混戦は続きますよ。カープ優勝の可能性はあります」と、
きっぱり。

名監督の一言

・・・うちの和田君(タイガース監督)に伝えなければ・・・(笑)。

『ブドウ糖の思い出』

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By田中和彦

「脳っていうのはね、雑食じゃなくてね。食べる栄養分はブドウ糖オンリーなんですよ」
と、脳外科医はおっしゃいました。

「だから、受験勉強に甘いものを食べたらいいという言い伝えは本当なんです」、と。

老母が糖尿病にも関わらず、よくチョコレートを隠し持っているから(笑)、ダメじゃないかと叱ると、「甘いもの食べないと、頭が悪くなるじゃないの」と反論するけど、理論的には正しいようです。

ま、83歳で期末試験もなくなった今、その必要があるのかどうかは別にして・・。

頂き物の「赤福」を朝一番、珈琲と一緒に。

何年か前に伊勢神宮に行ったとき。赤福本店での川風の心地よさをフト思い出しました。

そんな訳で、脳だけは元気です。

「おかげ横丁」でその時買った宝くじが3000円当たって、流石、お伊勢さん!と言って顰蹙をかったことも含めて・・ブドウ糖の、いや、赤福の思い出なのです。

ゴーゴーズ「We Got The Beat」で僕の7月1日が始まりました。

輪越し祭り 写真

写真:昨日6/30「輪越し祭り」(松山市萱町商店街)に繰り出したラジオスタッフとうちの若手女子アナ達。雨の中頑張りました。

『Oさんのハイライト』

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By田中和彦

Oさんは入社の一期生にして、大昔の社長さんで、すでに故人でいらっしゃる。

「こら。かずひこ!」と社内で会うと20代の新人アナを、下の名前で乱暴に呼んでくださっていた。それが親しみをこめているということも知っていました。

1964完成社屋
写真:南海放送 旧社屋 道後樋又(1964年頃)

一階の喫茶店にタバコを置き売りしていたのですが、セブンスター全盛期の頃にハイライトがあったので、
「なんで、こんなダサいタバコを置いているのよ」とマスターに言ったら、答えずに目配せ。

 

僕の後ろにO社長がいらして、「ワシが のみよんじゃ。悪いか!?」

(爆) !  (爆) !  (爆) !

霧の立ち込める松山。
なんで今日、僕はOさんのことを、思い出しているんでしょう・・。

「社長はいつも、お昼は一人なんですね」

ある日、偶然一緒になった定食屋で。

「あのなあ。社長は孤独なんじゃ。お前には一生、わからんわ」(笑)

あなたは、おでんの串を口に挟んだままで、高笑い。

深夜放送時代に語り尽くしましたが、「孤独」とは根源的なもの。
だから、立場や職業での「孤独」を僕は感じたことはないんですが・・・

Oさん。あなたにふと、逢いたくなりました。
なんででしょうね。

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