ラジオに最初の奇跡をもたらしたのは「ラジコ」という新たな“思考”でした。
そしてそのPART2が、数日前にTBSラジオが発表した「リスナーファインダー」というラジコデータを使った新たな“アイテム”。
今、ラジオを聴いている推定人数や年齢構成などが1分おきに表示されるというものです。

(これ見ながらスタジオで喋るのは刺激的!!・・・笑)
ラジオの奇跡は、いよいよ“思考”から“アイテム”に具現化されてきました。
思い返せば、ラジコの言い出しっぺは今は大学の先生になっているMさん。
そして、TBSラジオの社長もMさん。
ラジオ界変革のキーパーソンはM!かも(笑)。
残念ながら僕はKTです・・・。
南海放送の歴史の中で最高の賞を獲ったのは盲目のチェンバリストを主人公にした「父から子への歌声」というテレビドキュメンタリー番組でした。
芸術祭大賞。
創ったのは大先輩のHディレクターで、僕たちは親しみを込めて敢えて軽く「巨匠!」と呼んでました。
ラジオ畑の僕はHさんの声が好きでラジオドラマ「ソローキンの見た桜」ではロシア兵捕虜のトップだったボイスマン大佐役を。
「ラジオ屋伊平騒動記」では大石内蔵助役をお願いした思い出があります。上手かったです。
「巨匠にラジオドラマの出演依頼など申し訳ないんですが・・・」とか言いながら。畑違いの気軽さです。
「田中君はバカにしてそう言っているんだろう」と豪快に笑いながら、ふたつ返事でいつも受けてくれました。
そのHさんが80歳の冬に亡くなってらして(公表されず)それが分かったので、今日ご自宅にお悔やみに行ってきました。
亡くなる一週間前。
自宅の最後の病床でご自身の作品を見直したいと二枚の番組DVDを皆さんでご覧になったそうです。

“制作者魂”とはそういうものなのですね。
いいお話を聞かせて貰いましたと奥様に頭を下げ、Hさん宅を後にしました。
外は雨。
人はいつか必ず死ぬ。
僕なら何を最後に聞きたいだろう・・・。
温度設定をしてボタンを押したら、朝刊を読んでいる間にお風呂が沸く。チャイムがそれを知らせる。
エアコンにはお休みタイマーやおはようタイマーが当たり前に付いている。
沢山の技術者達が汗を流して競争したからこその進化だったんだよな、と思います。
「あのお休みタイマーはお父さんの発明だったんだよ」と家族にも自慢できず、死んでいった無口で武骨な技術者がいたに違いありません。
テレビで70年代のアイドル歌姫だったフランスのダニエル・ビダルを観ました。

来日した時のインタビュワーはなんと糸居五郎さん!!
当時のオールナイトニッポンの月曜パーソナリティ。
ついでに言えば南海放送の1953年10月1日の放送開始は糸居アナウンサーの声から始まりました。
「JOAFこちらはラジオ南海です・・・」
あれから65年。
僕らは先輩達を超えれたのかな?放送にどんなちいさな発明や発想を加えられたかな、と思います。
ダニエル・ビダル「オーシャンゼリゼ」を聴きながら。
※「オーシャンゼリゼ」ダニエル・ビダル 1971年
昨晩行われたロシアの通信社の女性特派員「奈加 キセーニヤ」さんの講演会。
(苗字は日本人の旦那さんの姓)

モスクワ生まれの彼女。
「私が日本語を初めて知ったのは母の影響です。5歳の時に教えられた日本の俳句が“朝顔につるべ取られて もらい水”でした」
5歳の私が「お水をもらう?・・・それがどうしたの?」と尋ねました。母はいいました。
「小さな花が綺麗だから、それをどうしても摘みとれなかった。日本人の美しい感性なの・・・」と。
お母さんは純然たるロシア人ですが、日本文学が好きだったらしく、キセーニャさんがプレゼントして一番喜ばれたのは万葉集のロシア語訳本だったそうです。
万葉集貰って、喜ぶ母親!カッキー!
日本人の母親に、そんな人が何人いるだろう・・・子供には本を読め!とやたらいう癖に。
昨日は、主治医のとこの理学療法士さんに行ったら早い時間なのに、もう午前中札止め。
で。コメダモーニングになりました。
コメダの社長さんとお話しした時。
一番面白かったのは「田中さん。自衛隊の行動基準で『突撃』ってページがあって、そこに書かれているのがいいんです。」
なんて?
「突撃!と言われたら、躊躇なく突撃する事!・・・と」(笑)
なるほど。で、コメダの全国展開はどの辺までいくんですか?
「800店くらいがリミットでしょうね。後は海外です。」
タイとか?
「タイはダメです。街の空気感がゆったりしているから、わざわざゆったりする空間が必要とされません」(笑)
なるほど。
「だから、台湾ですね、次は・・・」
ラジオの次のゆく道をおんなじように考えました。
次はラジコワールドです。
その為の春のスタートを。突撃!!(大丈夫かな・・・みんな動くかな。笑)
コメダの空がすがすがしく青いです。
