『お笑いの正義』

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By田中和彦

自称・漫才評論家の僕としては(笑)「和牛」の評価は最高ゾーンにあります。

1977年。東京某キー局のディレクターの入社試験の時。

「吉本芸人」の全国化、例えば「ヤスキヨ」とか若手漫才師をもっと登用すべきだと面接で豪語したんですが、
試験官に冷笑されてしまった思い出があります。

「君は関西出身だからね・・」と。

それを数年後に他局がやって「漫才ブーム」がきたのはご存じの通りです。

今、いちばん面白い漫才師が「M1」を取るべきだと(他系列局のイベントながら)思っているので、

和牛のお二人に、今年は「M1」を獲ってください。”お笑い正義”を正してください・・とお話ししました。

そしたら川西さんが
「そんなぁ、他の人が悪役みたいなこと・・」と柔らかに首を振られました。品のある方です。

水田君とは同じ伊予市出身、北山崎小学校の同窓でもあります。

南海放送が彼らのレギュラーテレビ新番組をスタートすることになったのは、僕としては最高の気分です。

企画した若き編成マンに、そして、応えてくれた「和牛」に感謝!!

どうぞよろしくお願いします。

※番組名「和牛のA4ランクを召し上がれ!」(毎週金曜24時30分~24時59分放送)
 初回放送は4月13日(金)24時30分からです。

『吉田拓郎。そして村下孝蔵の海』

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By田中和彦

南海放送サンパークがまだアンテナ公園と呼ばれていた頃。

デビュー前後の吉田拓郎がギター一本抱えて広島からやってきた・・・と、大先輩に聞いたことがあります。

1970年あたりのことだと思います。

広島の大学生だった吉田拓郎がフェリーで海を渡っていたんだな、

そして その時なにを思っていただろう・・・と。

彼は後に「東京に出て行く」も「おけいと離婚しました」も、ラジオで発表しました。

『松山行きフェリー』を作った頃の村下孝蔵くんも松山のロープーウエイ街にあった伝説のライブハウス「9th」時代によくお会いしました。

1981、2年の頃。FM愛媛や僕のラジオの深夜放送が始まる直前でした。

彼も吉田拓郎と同じくこの瀬戸内海をしょっちゅう渡っていた訳です。

夢がいっぱいあったんだろうなあ。

これから帰る松山。

僕の夢は・・・なんだろう。(宇品港にて)

※「松山行フェリー」村下孝蔵 1980年

『海で思い出す、アレコレ』

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By田中和彦

広島行きの水中翼船で船酔いして、ずーっとトイレに閉じこもっていたのは1985年の3月。

その時思いついたのが、あの「赤シャツの逆襲」のストーリーでした。無念な思いから・・・(笑)

いつからか。水中翼船からスーパージェットに代わって船酔いはなくなり快適に、しかもスピードアップされました。

その分、アイデアや発想が湧かなくなったかも・・・(笑)。

愛媛FCの役員さんと出発前、松山観光港で遭遇し、昨日の初勝利を喜び合いました。

“思い”から人生が変わるように、“全ての事は初めに心ありき”・・・なのかもしれません。

海で思い出すアレコレのうちの一つ。

頭に流れるテーマ曲は「シーオブラブ」(ハニー・ドリッパーズ)です。

※「Sea Of Love」 Honeydrippers 1984年

『21回の無。そして、1回の夢。』

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By田中和彦

年に四回くらいしかない曹洞宗の「写経教室」

今日を逃したら今年はゼロになるかもしれない・・と。午前中に休みを取って行ってきました。

ちなみにうちの宗派は浄土宗。

母親の初彼岸ということもあり、心を込めて「般若心経」を書いてきました。

これを墓前に捧げる・・というと ちょっとくさいドラマになるんですが、サラサラその気はありません(笑)

「お父さんとお母さんの子やのに、なんであんたは字が下手なんやろ」

・・と人生で100回以上言われましたから、墓前に持って行って、母の安らかな心が乱れてはと・・、愚考いたしました。

書き終えて、一番難しいのは「無」という漢字だと気づきました。哲学的ですね。

般若心経にはこの「無」が21回も出てくるんです。

それに比べて「夢」は1回だけ・・。

どうでもいいことですが、そんな事に気づいてしまいました。

『3.13の思い出』

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By田中和彦

河原学園9校合同の卒業式に行ってきました。

式典中。

やっぱり理容学科・美容学科の男の子のスーツとネクタイ選びのセンスがいいな、と

関係ないチェックを来賓席からしたりしていました。

3年前の今日もこの場所にいました。3.13は特異日ですね(笑)。

もう1つ。3年前の今日、ケツメイシさんがご挨拶にいらして、うちの娘の(笑)

いや、津野ちゃんこと“チャーカ”の音楽界への道が始まりました。

2年の休職の後。去年の今日、退職辞令を渡すことになりました。

(ここにいなよ、と止めたんですが・・・)

3.13はいろんな人の旅立ちを見送る日かもしれません。

全ての若者に、わが娘に、その春に・・・幸あれ!!

※ひめぎんホール5階まで満席の今日の卒業式。
※3年前、そして“去年の今日”の津野くん。