今日は今年一年で一番ハードな1日になります。
午前と午後に長時間会議があって、その隙間に年末恒例のいろんなお客さんがいらっしゃいます。
どちらも大事なこと。深く、深く深呼吸です。
5時半起きでフルーツモーニングにしました。焦げ目をつけたフランスパンと青汁も…。

ビートルズは「ハードデイズナイト」で犬のように働かなければいけない1日だ…と唄っています。
ジョンレノンさん。英語圏では犬は忠実な労働者の比喩に使われるみたいですね。
犬好きの東洋人としては、そこは違和感です(笑)
天下のビートルズに文句をつけたところで、大きく息を吐きました。
雨のせいか、肋間神経痛が痛ぇや。
ワム!の「ラストクリスマス」が発売された頃。だから1984年。
僕が30歳のDJ時代に自分の深夜放送でよく言っていた台詞。
“LASTには「最後の」という意味のほかに「最高の」という意味があるんだよ”
・・・
あの時と同じことを考えながら「ラストウィーク」を過ごします。
ラジオのために何ができたか?!
将来の布石をいくつ打てたか!?
才能をいくつ発見できたか!?
・・など。自省しながら大晦日までの一週間を過ごしたいと思います。

エレベーターに貼られた社内ポスターを見ながら、小さな声で独り言を・・
“来年はステーキ納会にできるよう頑張りたい・・” (爆)
※ワム!のジョージ・マイケル氏が昨日のクリスマスに死去されたとのニュースが入ってきました。53歳でした。
この日誌は、訃報を知る前に書きました。ご冥福をお祈りします。
先日放送した「浦和盛三郎」というのは宇和島と愛南町をわける由良半島の、いや南予の生んだ明治のヒーローでした。
浦和を僕に教えてくれた犬伏先生の追悼番組を放送した後日談。
その浦和のただ一人の末裔である孫娘のKさんから、再放送の御礼のお手紙をいただきました。
教養と品のある美しい文字。
今は老人施設に入居されているそうです。
「私は子供がいなかったから浦和盛三郎の名前を伝えるすべがなく、
ご先祖様に申し訳なく思っている」という言葉を何度も聞きました。
あなたがいて、犬伏先生がいたからラジオドラマができたのです。
僕がきちんと伝えていきますから、ご安心ください・・とご返事しました。
そんなことは書くべきではなかったのかもしれません。
当時の小学生の通学路の白黒写真が、由良半島のすべてを物語っています。

棄てられない一枚の写真です。
そして、捨てられないあなたからのお手紙。
安心しないで、長生きしてくださいね。
※浦和盛三郎 1843年(天保14年)~1892年(明治25年)
故郷・内海村網代でイワシ大網2張とマグロ大敷網の拡張に手がけ財を築く。
大敷網や捕鯨術の改良、日本初の綿糸製巾着網の創作、水産加工の振興など日本の漁業近代化に貢献。
網代地区民の菩提寺の誘致、小学校の創立、道路の建設に資産を投じる。
明治16年には御荘為替店を創立、翌17年には宇和島銀行取締となり大阪支店を開設。
支店開設の手腕を買われ、大阪商船の圧力で窮地に陥っていた宇和島運輸社長に招かれ、大阪・別府航路を確保。
明治21年には大阪に伊予物産会社を創立し、利益を独占していた大阪商人と対抗し、「網代海王」とも言われた。
県議会議員も務め、第1回特設県会において旧高松藩士族で維新後香川県大属まで勤めた議員松本貫四郎に対し、
平民出身の盛三郎は「松本貫四郎の駁議はそれがしに対して礼を失するものと言うべし。
(中略)それがし、管内の僻隅に居り、いわゆる井底の痴蛙といえども、また少しく見るところあり。」と一喝した。
元松山東雲短大特任教授で古建築研究家の犬伏武彦氏が著書『南海僻隅の痴蛙なれど―浦和盛三郎伝』で
浦和盛三郎の波乱の生涯を綴った。
1)全社の照明をLEDに切り替えたら・・「LEDってちょっと寒いんです」というクレーム(笑)
なるほど。熱を発さないからこそ経済的なんだな・・と知らざる副作用を知らされました。
2)福岡放送の社をPRするラップが評判です。A社長もラッパーの格好で登場してらっしゃいました。
「田中さんあたりもどうですか?」
僕は無理です。
一部の人は知っているけど、僕は・・♪目立たぬように はしゃがぬように♪(河島英五「時代おくれ」)がモットーなんです。
でもラップならうちの津野ディレクターがいるしな・・とも。
3)今日は午後から葬儀列席のため黒服出勤です。こういうときはその時までのネクタイのセレクトが困ります。
で。母校の公式ネクタイにしました。

4)NHKFMを聴いていると「次回のクラシック・リクエストは生放送でお送りします・・」と。
生放送の意味があるのかしらん・・と思いながら、そういう心意気がラジオって一番大事なんだよなあ・・とか。
もろもろ。そして、時代おくれ。
戦時中。リトアニアで沢山のユダヤ人にビザを発給し、
6000人の命を救った外交官・杉原千畝を顕彰し名誉回復をしたのは、
当時の外務省政務次官の鈴木宗男さんでした。
杉原がドラマになって有名になっても鈴木宗男さんの功績を誰も知らないし、語りません。
ユダヤ人の恩人は杉原で、杉原千畝の恩人はあなただったのに…。

昨夜。あなたのエネルギッシュな講演をたっぷり聴きました。
ステージ3の胃ガン手術を二度も経験されているとは思えません。
例は悪いのですが、ヒトラーの演説もこうだったんだろうと思います。
聴き手の魂が気持ちよく揺れる。
今日の日ソ首脳会談の見通しもよく分かりました。
あなたの迫力、信念に学びたいと心から思いました。
あなたを見習って、もう少し強くなろうと思います。
帯状疱疹のチクチク痛みなんか、なんのこっちゃありません。
出会いに感謝です。神様ありがとう。
※杉原千畝 1900年(明治33年)1月1日 – 1986年(昭和61年)7月31日
第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニア・カウナス領事館で、
ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人に、外務省からの訓令に反してビザを発給し、
彼らの亡命を手助けする。
鈴木宗男氏は杉原氏夫人の著書『六千人の命のビザ』に感激し、杉原千畝の名誉回復に尽力した。