『あなたに書く・・手紙』

In Categoryヒコヒコ日誌
By田中和彦

先日放送した「浦和盛三郎」というのは宇和島と愛南町をわける由良半島の、いや南予の生んだ明治のヒーローでした。

浦和を僕に教えてくれた犬伏先生の追悼番組を放送した後日談。

その浦和のただ一人の末裔である孫娘のKさんから、再放送の御礼のお手紙をいただきました。
教養と品のある美しい文字。
今は老人施設に入居されているそうです。

「私は子供がいなかったから浦和盛三郎の名前を伝えるすべがなく、
 ご先祖様に申し訳なく思っている」という言葉を何度も聞きました。

あなたがいて、犬伏先生がいたからラジオドラマができたのです。

僕がきちんと伝えていきますから、ご安心ください・・とご返事しました。
そんなことは書くべきではなかったのかもしれません。

当時の小学生の通学路の白黒写真が、由良半島のすべてを物語っています。

棄てられない一枚の写真です。

そして、捨てられないあなたからのお手紙。

安心しないで、長生きしてくださいね。

※浦和盛三郎 1843年(天保14年)~1892年(明治25年)
 故郷・内海村網代でイワシ大網2張とマグロ大敷網の拡張に手がけ財を築く。
 大敷網や捕鯨術の改良、日本初の綿糸製巾着網の創作、水産加工の振興など日本の漁業近代化に貢献。
 網代地区民の菩提寺の誘致、小学校の創立、道路の建設に資産を投じる。
 明治16年には御荘為替店を創立、翌17年には宇和島銀行取締となり大阪支店を開設。
 支店開設の手腕を買われ、大阪商船の圧力で窮地に陥っていた宇和島運輸社長に招かれ、大阪・別府航路を確保。
 明治21年には大阪に伊予物産会社を創立し、利益を独占していた大阪商人と対抗し、「網代海王」とも言われた。
 県議会議員も務め、第1回特設県会において旧高松藩士族で維新後香川県大属まで勤めた議員松本貫四郎に対し、
 平民出身の盛三郎は「松本貫四郎の駁議はそれがしに対して礼を失するものと言うべし。
 (中略)それがし、管内の僻隅に居り、いわゆる井底の痴蛙といえども、また少しく見るところあり。」と一喝した。
 元松山東雲短大特任教授で古建築研究家の犬伏武彦氏が著書『南海僻隅の痴蛙なれど―浦和盛三郎伝』で
 浦和盛三郎の波乱の生涯を綴った。