昨日、サッカー元日本代表監督、西野朗さんの講演会に行って来ました。いい時間でした。
(早稲田大学の二年後輩だけど、何故か“さん付け”・・・笑)

1992年に愛媛でキリンカップサッカー「日本 対 ウェールズ」がありました。
松山でこんなビッグゲームがあったのはこの年が最初で最期。
参加チームはアルゼンチン、日本、ウェールズ。
僕はテレビの実況をやったのですが、この時の解説が確か・・・西野さん。当時からハンサムでした。
西野さんとは全国高校サッカー選手権大会も何試合かご一緒しました。
「和彦の実況は面白いから・・・」とサッカー嫌いの父親がおふくろにそう言って、キリンカップは一緒に観たんだと後で聴きました。
この時の日本代表は攻撃的MFがラモス瑠偉。FWは高木琢也のワントップでした。
すでに優勝を決めていたアルゼンチンのカニーヒア(カニージャ)が自分とおなじような金髪の彼女を連れて優勝カップを松山のスタジアムに取りに来ました。
あの時の彼女。今はどうしているんだろう・・・。
なんでそんなツマンナイ事ばかり思い出すんでしょうね。
1992年の、僕のララバイ・・・です。
昨日は、お誘いを頂いて大阪交響楽団の演奏会に行って参りました。

※演奏会チラシの画像
前半の演奏でオーケストラバックにピアノを奏でたのは赤いドレスの林澄子さん。
松山東高校のOG。
昭和の母親たちが娘に一度はピアノを弾かせようとした気持ちが分かりました。
・・・か、か、カッコいい。
(前の席にいらした友近ママに後で聞いたら、やっぱり一度は娘達にピアノをやらせてみたらしいです。)
後半の演奏曲は僕が知っている数少ないクラシック「新世界より」(ドヴォルザーク)。
中学一年の頃。親にねだってステレオを買って貰い、「クラシックを聴くなら…」という母親との約束で一年だけ聴いたLPの中にあった曲です。
その後。荒木一郎、フォーク・クルセイダース、ビー・ジーズ、サイモン&ガーファンクル…とクラシックから離れていき、・・・挙句、ご存知の中年ポップス野郎に。
演奏会の余韻を楽しみたくて、一人二次会にスタバタイムです。
おや?!お店の黒板に愛媛マラソンの応援が・・・。

この店はコースに面しているから営業的に迷惑かけるのに、嬉しいですね。
ラジオに最初の奇跡をもたらしたのは「ラジコ」という新たな“思考”でした。
そしてそのPART2が、数日前にTBSラジオが発表した「リスナーファインダー」というラジコデータを使った新たな“アイテム”。
今、ラジオを聴いている推定人数や年齢構成などが1分おきに表示されるというものです。

(これ見ながらスタジオで喋るのは刺激的!!・・・笑)
ラジオの奇跡は、いよいよ“思考”から“アイテム”に具現化されてきました。
思い返せば、ラジコの言い出しっぺは今は大学の先生になっているMさん。
そして、TBSラジオの社長もMさん。
ラジオ界変革のキーパーソンはM!かも(笑)。
残念ながら僕はKTです・・・。
南海放送の歴史の中で最高の賞を獲ったのは盲目のチェンバリストを主人公にした「父から子への歌声」というテレビドキュメンタリー番組でした。
芸術祭大賞。
創ったのは大先輩のHディレクターで、僕たちは親しみを込めて敢えて軽く「巨匠!」と呼んでました。
ラジオ畑の僕はHさんの声が好きでラジオドラマ「ソローキンの見た桜」ではロシア兵捕虜のトップだったボイスマン大佐役を。
「ラジオ屋伊平騒動記」では大石内蔵助役をお願いした思い出があります。上手かったです。
「巨匠にラジオドラマの出演依頼など申し訳ないんですが・・・」とか言いながら。畑違いの気軽さです。
「田中君はバカにしてそう言っているんだろう」と豪快に笑いながら、ふたつ返事でいつも受けてくれました。
そのHさんが80歳の冬に亡くなってらして(公表されず)それが分かったので、今日ご自宅にお悔やみに行ってきました。
亡くなる一週間前。
自宅の最後の病床でご自身の作品を見直したいと二枚の番組DVDを皆さんでご覧になったそうです。

“制作者魂”とはそういうものなのですね。
いいお話を聞かせて貰いましたと奥様に頭を下げ、Hさん宅を後にしました。
外は雨。
人はいつか必ず死ぬ。
僕なら何を最後に聞きたいだろう・・・。
温度設定をしてボタンを押したら、朝刊を読んでいる間にお風呂が沸く。チャイムがそれを知らせる。
エアコンにはお休みタイマーやおはようタイマーが当たり前に付いている。
沢山の技術者達が汗を流して競争したからこその進化だったんだよな、と思います。
「あのお休みタイマーはお父さんの発明だったんだよ」と家族にも自慢できず、死んでいった無口で武骨な技術者がいたに違いありません。
テレビで70年代のアイドル歌姫だったフランスのダニエル・ビダルを観ました。

来日した時のインタビュワーはなんと糸居五郎さん!!
当時のオールナイトニッポンの月曜パーソナリティ。
ついでに言えば南海放送の1953年10月1日の放送開始は糸居アナウンサーの声から始まりました。
「JOAFこちらはラジオ南海です・・・」
あれから65年。
僕らは先輩達を超えれたのかな?放送にどんなちいさな発明や発想を加えられたかな、と思います。
ダニエル・ビダル「オーシャンゼリゼ」を聴きながら。
※「オーシャンゼリゼ」ダニエル・ビダル 1971年