西日本豪雨3年 みかん山再生物語(中)

オピニオン室

西日本豪雨3年 みかん山再生物語(前)から続く。

 

「青写真が描けない」

「もうみかん山は耕作放棄になるかも…」

 

西日本豪雨による土砂崩れで

みかん山を失い、そう話していた

宇和島市吉田町のみかん農家、中島利昌さん。

 

その気持ちはおよそ1年かけて

徐々にみかん山の再生へと向かっていきます。

 

 

豪雨災害から2か月が経った2018年9月。

 

県内各産地の若手みかん農家が

中島さんが住む玉津地区に集まりました。

2018年9月6日・西日本豪雨から2か月

 

被災地では土砂崩れで塞がれた農道の復旧や

崩れた土砂の撤去などに追われる毎日で

みかん畑の手入れもままならない、

と聞き駆け付けたのです。

 

中島さんのみかん山では

350本のみかんの木が土砂崩れで流されましたが

50本の木が、被害を免れ山にとどまりました。

 

中島さん自身も

床上浸水した自宅の後片付けなど、生活再建に精一杯で

残った50本の木を手入れし

冬場の収穫期に向けてみかんを育てていくことを

諦めようとしていました。

 

そのみかん山に八幡浜市や伊方町などの

若手農家3人が入り、摘果作業に汗を流したのです。

「僕たちは(愛媛が)日本一の産地やと思って
ミカンを作らせてもらってるんで、
やっぱその愛媛の中で困ったことがあったら
同じ仲間として助け合うのが一番かなと」 (伊方町のみかん農家)

 

11月には

残った木からみかんを収穫する際、

スムーズに運搬作業ができるようにと

崩れた斜面に仮設の道を作る工事が行われました。

2018年11月8日・西日本豪雨から4か月

ボランティアで作業を買って出たのは

愛南町の建設会社です

 

そして11月末。

愛媛県内のほか関東や関西などから集まった

ボランティア、アルバイトの手を借りて

収穫作業が行われました。

真っ青な海を背景に

崩れたミカン山のそばで光り輝くオレンジ色のみかん。

みかん山に戻ったハサミの音と笑い声。

 

妻・恵津子さん

その光景を見つめていると

5か月前の中島さんの悲痛な表情が頭をよぎり

沸き上がる感情を必死で抑えたことを覚えています。

 

中島さんは、こうつぶやきました。

「ここでこうやってな、
笑顔でミカン採れるようになるとは思わんかったわ」

 

西日本豪雨を乗り越えて

実をつけた中島さんのみかん。

 

収穫量はおよそ1.7トンと

災害前と比べると6分の1から7分の1の量だとは言いますが

多くの人たちの手が差し伸べられた結果

収穫することができた、まさに“復興みかん”です。

 

玉津みかんの初競り(2018年11月29日 東京・大田市場)

 

中島さんは

崩れたみかん山を再生させることを決意します。

 

おいしいみかんが生りだすまでに植えて約10年。
ちょうど70歳ぐらいかな。

本当に玉津の復旧は長くかかるけど
止まらずに前向いて行くだけやな。
止まって後ろ向いても、もうどうにもならん。
前向いて行くだけ。

 

豪雨から11か月が過ぎた2019年6月。

 

中島さんは

JAえひめ南 玉津共選場の一室で

宇和島市の職員と向き合っていました。

2019年6月6日・西日本豪雨から11か月

職員
「災害復旧事業に申請をするということでよろしいですね」

中島さん
「はい、お願いします」

 

国の補助事業を活用して

被災したミカン園地を再生させるかどうか、

この日、地区のみかん農家に対し

最終の意思確認が行われたのです。

 

そして去年3月。

災害発生から1年8か月が経ってようやく

中島さんのみかん山に重機が入りました。

2020年3月5日・西日本豪雨から1年8か月

“災害に強い園地”を目指して

復旧工事が始まったのです。

 

“災害に強い園地”とはどんなみかん山なのか?

 

そしてあの日から3年が経っての

みかん産地の復興の現状は。

 

次回記事に続きます。

記者プロフィール
この記事を書いた人
松岡宏忠

奈良県大和高田市出身。2005年に入社し
2009年の「NEWS CH.4」番組開始とともに
フィールドキャスターに。
2013年からキャスターを務める。
2021年春からはデスク業務にもあたる。
好きな言葉は「毒蛇は急がない」。

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