「もう本当、天地がひっくり返ったような
3年間やったと思います」
みかん山に腰かけ、かみしめるように語る
中島利昌さん(61歳)。
眼下には中島さんが
「人間で言うと小さい赤ん坊」と話す
植えたばかりのみかんの苗木、240本が
背比べをするように並びます。
今からちょうど3年前の7月11日。
西日本豪雨から4日後の
被災地、宇和島市吉田町で私は
みかん農家の中島さんと出会いました。
泥のかき出しなど終わりの見えない復旧作業に
体力を奪う連日の暑さ…
現地で出会う被災者の方々と同様、
中島さんの表情からも濃い疲労の色が読み取れました。
何とも言えん…
涙が出そうになるのを
母が生きとるので堪えながら。
母の前では弱気なところは見せられないので。
とは思ってるけどなかなか…
以前の記事、
触れましたが、宇和島市吉田町は
江戸時代にみかん栽培が始まった
愛媛みかん発祥の地。
現在も愛媛県内で有数のみかん産地です。
その吉田町の中島さんが暮らす玉津地区は
西日本豪雨の際、いたるところで土砂崩れが発生し
11人が犠牲になりました。
地区のみかん園地も全体の4分の1が
土砂崩れの被害を受けました。
国道沿いの海に面した中島さんのみかん山も
文字通り“根こそぎ”
みかんの木を飲み込んで海に流出。
「山が無いなったぞ!」
みかん農家仲間からそう連絡が入ったと言います。
中島さんは、わが子同然のみかんの木、
およそ350本を一瞬にして失いました。
年老いて役目を終えたみかんの木に代わり
新しい苗木を植えたのが27年前。
娘の千佳さんの誕生にあわせてのことでした。
今のところ、本当に正直なところ
青写真が描けません。
ミカンの木というのは、植えてすぐミカンがなって
収入ができるわけではないんで。
どうしても10年、15年経って
初めてそれなりのものができてきて、
それからだんだん良くなっていく木やから。
…見れば見るほど辛いです。
海にまでは流されず
崩れた山の途中にとどまったみかんの木を
愛おしく、なでながらそう語る中島さんの悲痛な表情に
胸がつぶれそうになったのを今も鮮明に覚えています。
さらに自宅も床上浸水の被害に。
西日本豪雨は中島さんから収入源を、
そして住まいを奪いました。
「青写真が描けない…」
「もうみかん山は耕作放棄になるかなという気はしています」
とも語っていた中島さん。
災害発生から1年を前に
みかん山再生に向けて動き出すことになります。
どんな心境の変化があったのか。
3年間でみかん山はどう生まれ変わったのか?
次回記事でお伝えします。