「歴史は、良くも悪くもありのままに真実を認め、そして未来を構築することは大事なこと。特に医療に関しては、真実に基づいて検証しておくことは重要なことではないでしょうか」-。
先月、ラジオ番組「ニュースな時間」のなかで、終戦75年についてみなさんの思いを募ったところ、松山市の医師、橋本大定(だいじょう)さんからご連絡をいただきました。
(橋本大定さん)
「世界的なコロナ禍の中、先の大戦で父が体験したことは、ひとつの参考になるのではないか」とのことでした。
(橋本さんの父、橋本元文さんの著書)
橋本さんのお父さま橋本元文(もとふみ)さんは西条で生まれ、大正12年、18歳の時に旧満州国にわたり奉天満州医科大学に学びます。昭和11年、首都にあった新京医科大学に内科教授として赴任。大戦に巻き込まれ、満州を必死の思いで引き揚げて松山に帰郷。その後、松山に医院を開業するまでの自伝を「追憶の満州」にまとめています。
25年前に書かれた本ですが、その中に、大戦のさなかに満州国で経験した、「関東軍の細菌研究所から発したペスト事件」の記述があります。その真相は、現在闇の中となっていますが、いまのコロナ禍を彷彿させる内容でもありました。
昭和15年、橋本元文さんは当時、満州国新京で内科の教授をしていました。ある日学長から”発病から3日で瀕死の状態になっている関東軍の細菌研究所職員”を診るように指示されます。雑音のある肩呼吸、梅の実を溶いたような痰。顕微鏡で確認すると、折り重なるほどのペスト菌が確認されました。肺ペストです。
ペストは感染経路から主に腺ペストと肺ペストにわけられますが、ペスト菌が肺にまわった肺ペストは、空気感染を起こし、高い致死率となります。
橋本教授はすぐに患者を隔離しますが翌日死亡、その妻も3日後に死亡します。ほどなく関東軍の731部隊から100人の隊員がやってきて、市民に3つの防疫策を指示します。1つ目は、血清の予防注射を受けさせ、受けていない人には公共の乗り物には載せないこと。二つ目に、ペスト菌はノミによって媒介されることから、ネズミを駆除するため、当時50万人住んでいた新京の市民に、1人2匹づつネズミを捕獲するよう指示。3つ目は、市民へのマスク着用を厳しく行いました。また、罹患者が発生した家屋を手荒く焼き尽くし、撲滅に成功したとされました。(※著書・橋本大定さんの話を要約)
橋本さんは、お父さまが淡々と体験を記した思いについてこう語ります。
「特に問題に思うのは、ペストの撲滅に成功はしたけれど、その事実を関東軍が伏せて、当時新京で起きたあのベストは別の地区から持ち込まれたものである、人に発生したのは肺ペストではなくて腺ペストだったから撲滅に成功したと話をまとめていて、関東軍の細菌研究所から発生したものであるという事実は、どの資料にも書かれていないんです。父親は、歴史の真実としてきちんと記録に残しておくべきだというふうに考えて書いたということのようですね」-。
翻って今、世界的流行となったコロナも、発生源は武漢のウイルス研究所から出たのではないかというトランプ氏、対して、アメリカ軍が撒いたのではないかと言いだす中国側、真相は不明です。
【前野整形外科(松山市小坂)】
現在76歳の橋本さん。
愛光学園から東大医学部に進学し、卒業後は、東京警察病院の外科部長、東京大学講師、埼玉医科大学教授などを歴任。腹腔鏡手術の第一人者として1000例以上の臨床にあたるとともに、新しい術式を開発するなど、多くの功績を残しています。
(腹腔鏡の新しい術式を考案)
現在は、娘さん夫婦が運営する病院の理事・最高顧問を務めていらっしゃいます。
「コロナから患者さんをどう守るか、職員や病院をどう守るかということに日々心を砕いている」という橋本さん、診療の合間を見て、外来の患者さんらに使用してもらうマスクを手づくりしてます。
キッチンペーパーをホチキスでとめて、あっという間に何枚も。かけひもは、耳が痛くならないよう長さが調節できる工夫がなされています。
執刀の最前線から引いたいまは、現場のサポートを中心に医療にあたっている橋本さん。満州国で起こったこの肺ペスト事件について紙芝居風にまとめ、院内や学会で語り継ぐ活動もしています。
橋本さんは、薄れゆく戦後の記憶と事実を、ひとつでも残しておくことが大事だと話します。
「歴史は良くも悪くもありのままに真実を知り真実を認め、そして未来を構築するということが大事。特に医療に関しては、今後とも起こり得ることと想定し、発生の始まりからどうすればそれが防げたかということまで、真実に基づいて検証しておくことは非常に重要なことだと思います」―。