きょう正午前、ある記者が「加戸前知事が亡くなったらしい」という一報を報道フロアに持ち込み、記者、デスクが総がかりで裏どりに走りました。死亡確認はなかなか難しい作業です。
確認は、あっけなく取れました。松山市内のある住居前に張り紙があったからです。「夫 加戸守行 儀 令和二年三月二十一日 八十五歳にて永眠いたしました」「加戸道子」。南海放送は速報スーパーで報じました。
私が得た情報では、今月22日に名前を明かさないご遺体が、県内の斎場から旅立たれたそうです。「あの人らしい」(情報元)。飾り気がなく、”超”愛妻家。最後まで、「妻、道子」と相談して決めたのかもしれません。
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加戸前知事は、平成史に残る保守分裂選挙「伊賀VS加戸」知事選挙(1999年)を勝ち抜いた文部官僚出身の政治家です。
私はこの選挙で、政治記者としてのキャリアをスタートさせ、様々な政治家を取材する機会を得ました。
記憶に残っているのは森喜朗元首相、野中広務元官房長官などです。特に森元首相は文教族のドンで、加戸さんと親しく、加戸さんが知事になるのを自民党本部から強力にバックアップしました。
自民党県連という組織が分裂し、投票日が1月3日と異例な日程で全国的にも注目され、し烈な選挙戦が戦われました。県内経済界も分裂。こうした過酷な状況の中、加戸派県議、加戸派国会議員の”旗印”として知事選を勝利に導いたのは、加戸さんの人柄によるところが大きいと思います。
加戸さんは”君臨”するタイプでは、まったくありませんでした。
白石春樹『保守』県政から続く、伊賀県政が”君臨”の度合いを強め、自壊したのに比べ、加戸さんは権力の要諦は”君臨”にないことを、いい意味で官僚時代に学んでいたように思います。
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記者との付き合いも、極めてフランクで気さくでした。良し悪しは別として、記者とホンネで語る”オフレコ懇”を始めたのも加戸さんでした。政策の真意や背景を記者にじっくりと、時間をかけて知って欲しいという意図でした。
私は公の記者会見で、知事にある経済対策について、「効果が十分でない。意味がない」という趣旨の質問をしたことがあります。その時、加戸さんはなんと!私に分かるように、眉に唾を塗るようなしぐさをしつつ、「国の補助金もあるし・・・」という趣旨の説明をしました。暗に「まぁ、そうムキになりなさんな。それほど重要な事業じゃないよ」とサインを出していると感じました。
謝罪するのも早かった。禁煙の県立中央病院の一室でタバコを吸ったことが判明し、批判された時、「私の目の前に灰皿があった。私の心に弱い心があり、ついタバコに手を出してしまった」と憎めない表現で謝罪しました。
こんな柔らかな政治家が県内にいたでしょうか?
愛した言葉は『惻隠の情』。
県内政治に”惻隠の情”をもたらそうと3期12年、県政を司りました。
安らかに、そして、ゆっくりとお眠り下さい。