きのう(2日)、西日本豪雨でミカン園地が壊滅的な被害を受けた宇和島市吉田町の玉津地区に設立された、ある会社に第一号社員が入社し、作業を始めました。
社員は大阪出身の宮長篤志さん(32)。大学を卒業後、サラリーマンをしていましたが、農業がどうしてもしたくて被災地、玉津に移住しました。
入社した会社は「株式会社・玉津柑橘倶楽部」。社長はミカン農家の原田亮二さん(37)で去年12月、仲間のミカン農家4人と100万円を出資して設立。ミカンや加工品の販売、農作業の代行や繁忙期のアルバイター派遣などを手がけます。
災害直後は、ブランドも産地も消滅するとまで言われた玉津。ところが復興はもちろん、復興”後”を見据えた農業経営モデルを目指して、アクセルを踏み込みます。
玉津のこの”馬力”の源泉は、どこにあるのでしょうか?
◆玉津ミカンは今、”食える”農業に
「株式会社・玉津柑橘倶楽部」の社長を務める原田亮司さんは、玉津で3代続くミカン農家。高校を卒業して一度、県外に出ましたが、10年ほど前に地元に帰り、ミカン農家を継ぎました。
収入はミカンの売上が約1000万円。経費を差し引いても、妻と子ども2人「みんなで楽しく、子どもを学校に行かせ、たまには贅沢もでき、自分の自由になる時間も持てる。貯金も100万以上は出来る」(原田さん)生活が送れるといいます。
◆新入社員は当面、手取り300万円が目標
「倶楽部」の第一号社員となった宮長篤志さんは、入社の最大の動機に「今、玉津のミカン農家は普通にやれば、普通に食える。初期投資もさほどいらないし、生産者が減少し、ミカン価格が安定している」ことを挙げます。
玉津共選関係者によると「ミカンシーズンがピークを迎える12月までに大体、80万トン台後半の量のミカンが必要。しかし、現実には80万トンを切る量しか市場に流通していない」
「年末になると、市場から”もっとミカンを送れ”と言われるが、送るものが無い。無いものは送れない」状況だといいます。
宮長さんは「倶楽部でミカン農家の基礎を学び、園地の規模や育てる品種なども勉強して独立したい。当面は生活できる、手取りで年300万円程度が目標」と語ります。
◆「株式会社」設立の戦略的意義
なぜ今、玉津でミカンを扱う株式会社が必要なのでしょうか?
原田さんはJAえひめ南の組合員であるため、ミカンは全量、JAを通じて市場に出荷、販売されます。
しかし、実際にはJAえひめ南には4つのブランド(共選・産地)のミカンがあります。
4つのブランドは同じ「赤箱」に箱詰めされるため、『玉津ブランド』の識別は、側面の”印”でしか判別できません。そのため、なかなか消費者に個別の『ブランド』として認知してもらえないと、生産者は感じています。
ところが、①一旦、JAにミカンを出荷し、②玉津共選(JA)から「倶楽部」が玉津ミカンを仕入れます。そうすることで、玉津ブランドを明確に打ち出したミカンを ③消費者に直接、販売することが可能になるのです。
もちろん、ネット販売も可能です。
ジュースなど加工品も同様に、はっきりとブランドを打ち出して、個人向けに販売できます。
◆株式会社は”JA内ベンチャー”?
「倶楽部」の大きな特徴は、”JAを飛び出さない”株式会社である点です。JAには営農指導や販促活動、全国の最新の価格情報など、農家を支える大きな役割があるからです。
逆に、「JAの立場からみても、いわば”JA内若手ベンチャー企業”としての存在価値があるはず。互いに良い関係を保ち、産地全体の発展に貢献できる」(玉津共選関係者)と戦略的に位置付けます。
◆被災地・玉津のミカン農家は37歳でも若くない?
「倶楽部」の取締役5人の年齢は33歳から38歳。この他、会社の設立趣旨に賛同して活動を共にするメンバーが10人います。その10人の年齢も26歳から37歳。原田さんは「37歳だと、玉津ではもう若手とは呼べない」と真顔で話します。
◆”食える”ミカン農家だからこそ若手を引きつける
玉津共選関係者によると、約220軒ある玉津のミカン農家のうち、4分の1程度の農家は後継ぎがいるか、もしくはすでに代替わり済みといいます。
背景には玉津のミカン農家が、”食える”職業になっているという事実があります。
原田さんも「最近は、大学で農業の専門知識を身に付ける意欲のある後継ぎも出てきた。やる気のある若手農家にはミカンで売上2000万円、中には3000万円を目標にする農家もいる」と話します。
こうした若手の活力が、復興、そして復興”後”を見据えた次世代農業にチャレンジする、大きな”馬力”になっています。
見方を変えれば、未曾有の災害という危機が、玉津の若手ミカン農家のアニマルスピリッツを一つにまとめ、大きな”復興動力”となったとも言えます。
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ところで、実は「株式会社・玉津柑橘倶楽部」は、愛媛ミカン発祥の地、吉田町に世代を超えて引き継がれた『共助』の精神を、現在の農業で、実際に役立てようという組織でもあります。
農業は工業製品とは異なり、自然や地域の人々との『調和』がとても重要です。
この役割については、回を改めて、紹介したいと思います。