「もう、お情けはいらない。今年は本来の玉津ミカンの実力をみてもらう」
西日本豪雨による土砂崩れなどで5人が犠牲となり、ミカン園地が壊滅的被害を受けた、宇和島市吉田町の玉津地区で聞いた言葉です。
実は、玉津共選長の山本計夫さんは昨シーズン、生産量、金額ともに思った以上に良い結果に終わったという印象を持っています。
『復興段ボール』と名付けて大田市場に売り出したミカンが予想以上に消費者に支えられ、山本さんは「市場やスーパーの方々にも”お情け”を頂いた」と感謝します。
ミカンのシーズン開幕を告げる極早生みかんの出荷まであと1か月。西日本豪雨『脱・復興』から、さらに次世代農業まで見据える玉津地区を取材します。
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◆愛媛ミカン発祥の地を襲った豪雨災害
吉田町は江戸時代末期からミカン栽培が始まった愛媛ミカン発祥の地。中でも玉津ミカンは高級ブランドで知られ、220軒以上の農家が、約400ヘクタールの園地でミカンづくりに励んでいます。
「もう共選長を辞めたいと思った」
山本さんは、西日本豪雨を振り返ります。
山本さんが見たところ、園地の約2割に当たる70~80ヘクタール以上が、何らかの被害を受けていました。被害は①園地が跡形も無くなる大規模崩落 ②根本の部分が大量に土砂を被り、「根腐れ」を起こす被害 ③ミカンの実に傷が入る被害など多岐に渡っていました。
◆ミカンの最適地は、土砂災害リスクと表裏一体
松山方面から国道56号・法華津峠を越えると、ハッと息をのむほどの美しいリアス式海岸が広がり、その斜面一面にミカン畑が広がります。
さんさんと輝く太陽、青い海から日光の照り返し、急傾斜地による、まんべんない日当たりの良さ。この美味しいミカンを作るための条件が、実は土砂災害に弱いというリスクと表裏一体だったことに気づかされました。
「とにかくまず、自分の園地に行きたい」
復興への第一歩は、まず園地に行ける状態にすることから始まりました。
毛細血管のように張り巡らされた農道を覆った泥の撤去には、ミカン農家みんなでスコップを持ち、リースで借りた、慣れないユンボを使って取り組みました。
約半数のスプリンクラーが使用できなくなっていたのは暑い夏場を迎え、大きなダメージでした。最初は手やりしつつ、スプリンクラー復旧にも農家自らが当たりました。
◆「頑張れ!」ご祝儀相場 一箱5万円
そうして迎えた去年のミカンシーズン、最も早い極早生ミカンの出荷には、約半数の農家が間に合わなかったとみられています。
しかし、大田市場の初セリでついた値段は一箱(5キロ)、5万円。「復興頑張れ!」の”風”が玉津ミカンを後押ししました。
「『復興ダンボール』は糖度はしっかりあるが、見た目は下等級で、通常は東京には出荷しないミカンだった」(山本さん)
最終的に『復興段ボール』は、シーズンを通して全体の約10%に当たる382トンが売れました。
また、極早生ミカンは「出荷の4割減を覚悟していたが、なんとか例年の9割の量を確保し、金額的にも8割程度は維持できた」と話します。
しかし山本さんは、その背景に消費者の”お情け”があったと気を引き締めます。
「糖度管理はしっかりしていたが、どうしても、目でもセンサーでも見落とす小さな傷が入ったミカンが紛れ込んでいた箱もあった。一個、傷ものが入ると、2日もすれば周りのミカンも腐らせてしまう。そういう商品にも目をつぶってもらった」
◆『脱・復興』 さらに、災害がターニングポイントに
現在、極早生ミカン出荷を1か月後に控え、玉津地区では園地の手入れに余念がありません。
農家の1人は「手を入れたら入れただけ、ミカンは”美味しさ”で応えてくれる。それが価格に反映すると嬉しい」と話します。
「もう、お情けはいらない。今年は本来の玉津ミカンの実力をみてもらう」
一方、山本さんら”ベテラン”農家は、若手農家に「いい畑を引き継ぎたい」と、根域制限栽培など新しい栽培方法への挑戦や、大規模な園地再編など新たな一歩を踏み出そうとしています。
昭和30年代初期には、ほぼ今の園地の状態になったとされますが、平成の大災害をきっかけに「絶対に今まで以上のいい園地にする」(山本さん)と意気込みます。
さらに、若手農家が被災をきっかけに株式会社を設立し、農協と協力しつつ、ミカン農業ベンチャーに取り組む”歴史的”一歩も踏み出しました。
※「被災ミカン『脱・復興』」は、シリーズでお伝えします。