現在、砥部町とその周辺には
80を超える砥部焼の窯元が
点在しているといいます。
なかでも
最も長い歴史を持つ窯元が
明治15年開窯で、今年7月に
140周年を迎える梅山窯。
梅山窯の歴史を記した
記念史「梅山窯のあゆみ」が
刊行されました。
460ページの記念史をめくると
驚くのが、かつての販売規模です。
明治の中頃には
東京、大阪、神戸に支店を構え
全国に販売網を確立。
大正時代に入ると
台湾の台北にも
販売所をオープンさせています。
第二次世界大戦前まで
アジア各国やインド、
アメリカなどにルートを広げ
当時“伊予ボール”と呼ばれた茶碗など
食器類や陶製の置物を輸出。
大正時代は製品全体の8割が
海外向けだったとの記述もあります。
一方、戦後は
柳宗悦、バーナード・リーチ、
富本健吉ら民藝運動のキーマンたちが
次々と梅山窯を訪れ
試作や研究、作品指導にあたった歴史が
詳しく記録されています。
こうしたクラフト運動を追い風に
現在、梅山窯の
代名詞ともなっている“唐草文様”が
デザイナーの工藤省治氏の手によって
誕生するのです。
以前、梅山窯を訪れた際
資料館に掲げられていた
「クラシハシゴト」という書が
強く印象に残っています。
自由闊達で大らかな筆運びの書は
棟方志功がしたためたものです。
梅山窯のみならず
砥部の窯元で働く人たちの多くは
砥部の地で暮らす人であり、
その「クラシ」とともに
窯の「シゴト」が営まれてきました。
140年の歴史の中で
時代に応じて作風や絵柄を
変化させてきた梅山窯。
令和の時代にも
職人たちの「シゴト」が
人々の「クラシ」に溶け込んでいます。
記念史「梅山窯のあゆみ」は非売品ですが
梅山窯や砥部町の図書館などで
読むことができます。