チェアマンと私

オピニオン室

Jリーグのチェアマンというと
初代の川淵三郎さんが
思い出されます。

1991年にJリーグを発足させた人物で
バスケットでも
2つに割れていた組織を統合し
Bリーグを発足させるなど
剛腕ぶりが有名です。

私は随分、前に川淵チェアマンに
助けていただいたことがあります。

拙著「オレンジ色の夜明け」という
愛媛FCのJ昇格を追いかけた
ルポルタージュを発行するとき、
本の帯で、
当時チェアマン(*キャプテンとも)
だった川淵さんのコメントが欲しく
全く面識はなかったのに、
いきなり初稿原稿と
「愛媛FCの昇格を追いかけた
本を書きました。
可能でしたら
コメントを頂けませんか❕」と
書いた手紙を添えて
無謀にも送りつけたことがあります。

すると…

数日後に
「自由に使ってくれ」と
川淵さんの宣材写真と
“献辞”が届きました↓

噂通りの決断力と行動力に
すっかりファンになりました。

二代目の鈴木昌チェアマンも
忘れられない方でした。

あれは愛媛FCが
Jリーグ昇格を目指して
最後のJFLリーグを戦っていた2005年。

選手たちが、おかやま国体出場を終え
リーグ再開10日前の9月14日でした。

愛媛を“黒船”が襲いました。

Jリーグ昇格の諸条件のうち
あとはリーグ成績だけ・・・と
思っていた矢先。

新聞にデカデカと
【愛媛FC来季J2は困難】
(*当時J3は無い)
【Jリーグチェアマン
準備不足などを指摘】
と載ったのです。

誰もが初めてのことで大慌て。

Jリーグのトップに言われたのだから
もうダメかも・・・と
クラブもサポーターもメディアも
ハチの巣をつついた状態でした。

結局、愛媛県の加戸守行知事(当時)や
松山市の中村時広市長(当時)らの
素早い対応と
「愛媛FCのJリーグ入会を
要望する署名運動」で
21万7780人分の署名を集め
県民総ぐるみで
本気度をアピールし、緊急事態を回避。

数か月後、改修を終えた
ホームスタジアム
愛媛県総合運動公園陸上競技場
(現ニンジニアスタジアム)を
鈴木チェアマンが訪れた際、
「正直(直ぐに改修)出来ないと
思っていたが
ここまでやられた。
“限りなく○に近い△ですね”」と発言。

あの発言は
今も耳にこびりついています。
(その後、JFL優勝しJ2昇格)

それ以降、三~五代目チェアマンとは
お会いしたことはありませんが
今回の野々村芳和氏で
六代目チェアマンとなります。

歴代最年少で
初のJリーグ経験者。

「サッカーという作品を
いかに作れるか。
その為に
Jリーグがどうサポートできるか。
議論を避けてきたところもあるので
色んな人と話をしたい」

ファン離れ。

コロナ禍での応援スタイル。

地方クラブの財政。

リーグの問題は山積です。

注目したいと思います。

最後に懐かしい方と
FC今治の試合前にお会いしたので・・・。

愛媛FCが昇格したときの監督、
望月一仁さん
(現アスルクラロ沼津・強化部長)。

「今、うち(沼津)は
お金が無くて大変なんだよ~
俺もこの後、夜行(バス)で帰るんだ」

沼津は、スタジアム照明に不備があり
クラウドファンディングや
行政に補助金を
出してもらおうとしているところ。

かつての愛媛FCのようですねというと
「あの時は夜行バスも使えず
フェリーで帰ってたからね~」と
笑ってました。

最後に
「今日の試合
(FC今治とアスルクラロ沼津)で
負けた方が昇格は厳しくなるだろうね」
と話してましたが、
結果は…0-0のドローでした。

愛媛FCは首位から金星
(1-0鹿児島ユナイテッド)
を奪いましたが
両チームとも
まだまだタイトロープ状態。

余裕はありません。

あと3試合で
今シーズンの折り返しを迎えます。

記者プロフィール
この記事を書いた人
江刺伯洋

江刺伯洋(えさし はくよう)1971年3月1日松山市生まれ。
入社以来アナウンサーとして主にスポーツやラジオを担当。特にサッカー実況は少年からJリーグまで全カテゴリーをこなしてきた。
著書に愛媛FCのJ昇格劇を描いた「オレンジ色の夜明け」、「群青の航海 FC今治、J昇格まで5年の軌跡」がある。【現担当番組】DAZNのJリーグ中継(FC今治、愛媛FC)、ラジオ生ワイド「江刺伯洋のモーニングディライト・フライデー」(毎金曜午前07:15~11:09)など。

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