西日本豪雨から3年。
大きな被害を受けた地域は
ほとんどが過疎高齢化に悩む町。
全国の多くの自治体が直面する
『地方の悩み』を抱えた地域を、
未曽有の危機が襲いました。
西日本豪雨で水没した大洲市肱川町も
そうした、地方に共通の悩みを持つ
自然豊かな、山間の小さな町。
しかし、肱川町にはもう一つ、
特別な”表情”があります。
歴史的に3つのダムと向き合う、という
全国的にも特別な周辺環境(立地)です。
肱川町の西日本豪雨の「その後」を
2つの”表情”から取材しました。
「災害が限界集落の時計の針を
10年早送りしたような感じ」(被災者)
「いずれ町を出ようと思っていた人が
西日本豪雨を機に土地を離れた」(被災者)
大洲市肱川町の鹿野川ダムの緊急放流で、
全体が”すっぽり”水没した
肱川町中心部の町並みは
3年でがらりと変わりました。
西日本豪雨「直前」の
2018年6月の人口は248人。
30年前から約4割減りました。
豪雨後、さらに10世帯、20人程度は
土地を離れたのではないかといいます。
◆父が始めて息子が継いだ”町おこし”もなか
豪雨後も土地にとどまって
親子2代、50年間にわたって
「もなか」の味を守り続ける夫婦がいます。
福栄堂菓子舗の『文楽もなか』。
福田永一郎さん、紀子さん夫婦です。
「これぞ”もなか”という、シンプルな味」。
そう語る、2代目の福田永一郎さん(53)。
「50年前、鹿野川ダム湖を
観光に活かすなどして
地域を盛り上げようという機運が高まり
菓子屋を営んでいた父親が
”肱川町の顔になるお土産を作って、
町を宣伝しよう”と始めた」(福田さん)。
地域の誇り、
江戸時代から受け継がれる人形浄瑠璃
”文楽”を名前に付けたところに
地元愛を感じます。
◆文楽もなかを襲った西日本豪雨
福栄堂のすぐ裏には
肱川の支流の河辺川がありますが
「年に1、2度、かなり増水することはあるが
氾濫したのは見たことない」(福田さん)。
ところが2018年7月7日は朝8時ごろから
河辺川の水が敷地にあふれ始め
「車を近所に移動させて、家に帰ると
あっという間にあたりが膝ぐらいまで
浸かっていた。
それから2階まで水位が上がるのは
すごく早かった」(福田さん)と話します。
実は、「前日までは激しい雨が続いていたが
氾濫当日の朝は、あまり激しく
降っていなかった」といいます。
なのになぜ、河辺川が氾濫したのでしょうか?
◆本流、肱川の緊急放流で
支流、河辺川の流れがせき止められた?
取材すると、何人もの被災者が氾濫当日、
「河辺川が逆流した」と感じたことが
分かります。
福栄堂のすぐそばの被災男性は、
「明らかに逆流した。
河辺川の下流の方向から
上流の方向に水が侵入してきた」と話します。
福田さんも「肱川本流の水位が上がり、
支流の河辺川の流れがせき止められて、
あふれたのではないか」と
体験をもとに推測します。
「白波を立てて、
河辺川を水が上って来るのが見えた」
という被災者もいます。
◆既存の野村ダム、鹿野川ダムに加え、
建設中の山鳥坂ダムと”3ダム連携”も課題に
現在、肱川流域には
上流の西予市野村町に野村ダムが、
肱川町に鹿野川ダムが、
そして、支流の河辺川の上流に
山鳥坂ダムが建設中です。
肱川町が水没した状況について
山鳥坂ダム工事事務所は
「肱川町全体の水位が上がった」と
説明します。
山鳥坂ダムは
1992年から約30年間にわたって建設が進む
洪水調節に目的をほぼ絞り込んだダム。
2026年の完成を目指し、
西日本豪雨と同規模の洪水を
下流域の堤防整備とあわせて
「安全に流下させる」を”公約”に掲げます。
西日本豪雨を受けて、国交省は去年、
「肱川ダム統合管理事務所」を
新たに設置し、
既存の野村ダムと
鹿野川ダムの2ダムの連携を強め、
より安全なダムの運用に取り組んでいます。
今後、建設中の山鳥坂ダムについても
豪雨時の河辺川の「逆流した」
「白波を立てて上ってきた」
といった住民の声と、
現実に起きた現象を検証し、
”3ダム連携”についても
検討する必要がありそうです。
◆住民が学んだ教訓、そして復興へ
住民も学んでいます。
「自分の地域だけの降水量に
気をつけていたのではダメ。
西日本豪雨以降、鹿野川ダム上流域の
降水量にも気を配るようになった。
西日本豪雨で初めて学んだ教訓」(福田さん)。
肱川地区は
支所(旧肱川町役場)や公民館など
町の中心機能が壊滅的被害を受け、
半壊以上の被災世帯は111世帯、
家屋解体は64件に上りました。
そのため大洲市が、
特に重点的に復興に取り組む
2つの地区の1つに指定され、
今年度から「まちづくり計画」に基づき
災害公営住宅への入居も始まり、
復興への足取りを本格化させます。
◆「文楽もなか」福栄堂の”復興”とは?
実は福田さんもまだ、実現できていない
”復興”があります。
被災から7か月後、文楽もなかの
復活を果たしましたが、
被災以前はもなかの他に、タルトと羊かんも
販売していました。
タルトと羊かんはまだ、手つかずの状態です。
福田さんは、肱川町の復興について
「まず住んでる人が幸せになるのが一番」
と話します。
そして、文楽もなかについて
「新たに何かに挑戦するよりも
同じものを残すことが大切。
被災後、文楽もなかをどうするか、
迷う気持ちもあったが、
父がゼロから始め、
お客さんと地域に認められて
ここまで来れた。
自分の一存でやめるわけにはいかない
という気持ちで再開した」といいます。
「老舗をこの地に残したい」(福田さん)。
◆肱川の治水の”最前線”、肱川町
「水害に強い町」の可能性
福栄堂の裏の河辺川を車でさかのぼると、
山鳥坂ダムの水没予定地に
元肱川町立岩谷小学校を
見つけることができます。
「わが父祖の拓きしこの丘」
立ち退いたのは33人。
肱川町が肱川流域で果たしてきた役割、
治水の”最前線”としての役割は
肱川町に特別な歴史であり続けます。
取材を通して、
どの地方にも共通の人口減少、高齢化、
若者の流出という課題に取り組むのは
決して簡単ではないけれど、
自分たちの地域が果たしてきた役割に
誇りを持ち、
水害の”最前線”で戦い続けた町として、
全国に誇れる水害に強い、安全な町を
創り上げて欲しいと感じました。