今やこの人の名前は野球というよりはイクメンパパ。もしくはお笑い芸人クワバタ・オハラ小原正子さんのご主人として認知されている方が多いのではないか?現に多くの有名人著名人が投稿しているAmebaブログ・パパ部門で、元モーニング娘。辻希美さんのご主人俳優の杉浦太陽さんと常に1・2位を争うトップランキングをキープしている。最近はYouTuberとしても活躍しており子供との何気ない日常動画や、十数年のアメリカ生活で身に着けた英会話スキルを活かした「英語で野球教室」が再生数を伸ばしている。191㎝の威圧感たっぷりの体を持ちながら、子供を見つめる優しい目。時折みせる屈託ない笑顔はそのギャップも手伝って「いい人」であることが透けて見える。実際に会って話してみると苦労を重ねた壮絶な人生が作り上げた人間的な「大きさ」や「優しさ」を持ち合わせている人物であることが分かった。
「マック鈴木」本名・鈴木誠。おそらく30代後半以上の野球ファンは野茂が海を渡り「トルネード旋風」を巻き起こしている時、NPBを介さずアメリカで実力を磨きメジャーリーグを目指している日本人がいた!と話題になった彼の名前を知ったのではないだろうか?実際野茂英雄がメジャーの扉を開いたのが1995年。マック鈴木がマリナーズでメジャーデビューを果たしたのが1996年。イチローがシアトルで活躍する2001年より5年も前にマリナーズのユニフォームを着ている。怪我とも戦い6年間で合計5球団メジャーを渡り歩き16勝を挙げた。2002年にドラフトでオリックスが指名しNPBへの逆輸入選手としても話題になった。オリックスの在籍はたった2年。その後「大好きな野球ができるのであれば環境は問わない」と現役にこだわり台湾のラミゴ、メキシコリーグやドミニカリーグでもプレーした。2011年には関西独立リーグの監督も務めた。現在は「野球解説者」や「野球教室」を軸に様々なタレント活動をしている。
そもそも彼がなぜ日本のプロ野球ではなくアメリカでプレーしていたのか?その理由を聞き正直驚いた。
■マック鈴木
「僕は甲子園にでて日本のプロ野球に入りたいというのが夢でした。現に兵庫の名門校に入り練習を頑張っていた。でも、弱いものいじめをする人が許せない性格で感情が抑えられなかった。」
マックは高校に入学して初めて迎えた最初の大晦日。他校の複数人のワルに因縁をつけられ1VS4の喧嘩をした。そして4人に大けがを負わせてしまった。そして年明け早々「もう学校にはいられないだろう」と自主退学という形で学校を辞めた。「高校をやめた後はしばらく何の目標もなくバイクばかり乗ってました(笑)」そんな姿を見かねた父が「お前は日本におったらあかん。海を渡ってアメリカへ行け」と言ったという。それからマックは16歳で渡米。父の知人のツテをたどり団野村氏が経営に関与しているアメリカの1Aのサリナス・スパーズの球団職員兼練習生として仕事を始めた。
「給料は月3万円。おもに洗濯係をしていました。野球選手としてまったく見られていなかった。年間140数試合、選手30人の練習着や試合のユニフォームをひたすら洗う日々。時には間に合わなくて球場で寝泊まりすることもありました。でもやっぱり野球が好きでランドリーが回っている時は少し時間ができるのでその間に走り込んだり、時にはバッティングピッチャーとしてボールを投げていました。」
そんな彼にチャンスが訪れた。洗濯係を勤め上げたシーズンの最終戦。「鈴木投げてみるか?」と登板機会を打診された。そこは1Aとはいえプロのマウンド。紙切れ一枚の契約書にサインをした。そこに書いたのが「誠」のニックネーム「Mac」。日本からきた洗濯少年が2番手としてアメリカのマウンドに上がった。
「こんな機会が来るとは思っていなかったけど、いつ声をかけられてもいいように、自分なりに準備はしていた。なぜか自信があった」
初球を投げた時、球場の空気が一変した。日本にいれば高校2年生の16歳。彼の投げたボールが95マイル(155キロ)を計測した。1イニング1奪三振三者凡退。試合終了後彼の周りには他のメジャー球団のスカウトが殺到したという。
まさに1試合で人生が変わった。
「自分が何も準備をせずその日を迎えていればこの結果はなかった。しっかり備えをしていたかたこそチャンスをモノにできた」
彼は野茂選手以降、NPBで活躍し海を海を渡ってきた「スター」選手と違い、ピラミッドの底辺から本物のアメリカの競争を勝ち上がってきた。1Aで95マイルを投げたデビュー戦の次の年は「洗濯係」ではなく「野球選手」として1Aでプレー。その翌年マリナーズとマイナー契約。2Aでプレー。その翌年一時メジャーに昇格するも登板のないまま3A。そして1996年。NPBを経験せずに初めてメジャーリーグのマウンドに立った日本人となった。
「僕は本当に親や周りの人達に迷惑をかけて生きてきた。でも野球があったから今の僕がある。こんな自分の経験を子供たちに伝えていきたい」
彼は、まったく知らない土地でたくましく生き、夢に向かって歩み続けた。その間、度重なる怪我、文化の違い、自由契約など常人では乗り越えられないかもしれない荒波を乗り越えてきた。だからこそ彼の言葉には「優しさ」がある。今、彼が野球教室を開けば子供たちが殺到する。「野球や運動をしながら英会話」を教える教室も大盛況だ。
もう一つ驚きの情報があった。マックにアメリカ行きを進言した父は四国中央市の出身で愛媛県はマックが幼少期からたびたび足を踏み入れているゆかりある土地だそうだ。またいつか彼の話を聞く機会があるかもしれない。