初めてのアジア開催となったラグビーW杯日本大会。「ONETEAM」を合言葉に目標に向かって戦い続けた日本代表に日本中というより世界中から賞賛が送られた。
「あの人が生きていればこの瞬間に何を思っただろう?」
私はいつもラグビーの試合を見るたびにある選手を思い出す。その人の名は仙波優(せんばまさる)。松山商業でフルバックとして活躍し花園に出場。関東学院大学では主将を務め「常勝関東学院」の礎を築いた。トヨタ自動車に入社後、1997年に日本選手権準優勝。98年に全国社会人大会で優勝。その年日本代表に選ばれW杯アジア予選に出場。日本人離れしたスピードとパワーで他を圧倒するトライゲッターとして大畑大介と共に日本のWエースとして世界と戦うはずだった。
しかし、1999年11月27日午前1時ごろ。ラグビー日本代表の至宝になるべき男は自ら運転する車でガードレールに接触しこの世を去った。25歳だった。
私が初めて彼の名前を知ったのは高校時代。野球部の先輩からだった。「松山商業に足が速くてパワーがある1年生がいた。でも今はラグビーをやっているらしい。」
仙波は名門松山商業野球部で1年生ながらショートのレギュラーを務めていた。しかし先輩からの厳しい指導に耐えられず退部。目標を失った彼は何をすれば良いのか分らず塞ぎがちになっていたという。そんな時に手を差し伸べたのが松山商業ラグビー部・渡部正治監督(現松山聖陵校長)だった。
「ルールは分からんでもいい。このボールを持ってつかまらんように向こう側に走ってみろ。」
仙波はボールを受け取ると猛烈なスピードで次々と目の前にいるディフェンスをかわし軽々と向こう側に行ってしまった。
■渡部監督
「初めて彼を見たときはびっくりした。こんなに運動能力が高い選手がいるのかと。入部1週間後に試合に出したらトライをとった。まったく次元が違った。この子はいずれ日本を代表する選手になる。そのためにはしっかりと大人が向き合ってやらんといかん。」
たぐいまれな身体能力を持つ彼は渡部監督の指導のもと、期待どおりにキャリアを重ねていった。松山商業3年次に主将として花園に出場。2回戦で敗れはしたがその存在感は際立っており日本代表候補に名を連ねた。その後進学した関東学院大学でも1年生からレギュラーとして出場。4年時には主将としてチームを牽引し強烈な個人技とキャプテンシーで「常勝軍団」の礎を築いた。トヨタ自動車でもトライゲッターとして活躍。1998年の日本代表に選出されこれからは「スピードの大畑」と「フィジカルの仙波」。日本のWエースとして期待されていたときに起こった事故だった。
トライ数の世界記録を持ち、歴代日本代表最高の選手の一人と言われる大畑大介は雑誌や新聞の取材で「あなたのライバルは?」という問いに対し必ず「仙波優」の名前を挙げる。また熱心なラグビーファンも「仙波が生きていればラグビーの歴史はもっと早く変わっていたかもしれない」とまで言う人もいる。仙波はそれだけ個性的で圧倒的なパフォーマンスを見せていた。
彼が亡くなって数年後。松山市で乗ったタクシーで運転手をしていた仙波の父に会った。
「渡部先生には感謝している。優はラグビーと出会ってから生き生きとしていた。自分の居場所を見つけた感じだった。」
あまり多くを語らなかったが仙波が野球からラグビーに転向し大きな期待を受け嬉しそうだったこと。またその期待に応えようと必死に努力していたことが伺え胸が熱くなった。仙波はラグビーが大好きだった。
今回、日本代表がその魅力を存分に教えてくれた「ラグビー」。これだけ盛り上がっているからこそ、その陰には仙波選手を始め日本代表の監督を務めた山本巌氏向井昭吾氏など愛媛県出身者の努力や思いも乗っていることを忘れてはいけない。