今週は、2カ月ぶりの「坂の上の雲ミュージアム」特設ブースからの生放送。「反骨の軍人」水野広徳の77回忌ということで、立命館大学の宮脇昇教授をゲストに、水野広徳を通して「人道主義=ヒューマニズム」をテーマにお話を伺いました。水野広徳は日露戦争などで活躍し海軍大佐にまでなりますが、第一次世界大戦後に視察したヨーロッパの敗戦国の惨状を目の当たりにしたのを契機に反戦を唱え続けたことで知られています。水野が軍人として活躍していた日露戦争の時代、「人道」という意味で注目されるのが松山収容所。当時3万人ほどの人口だった松山で、多い時には4000人ほどもいたというロシア兵捕虜。その暮らしぶりは、驚くべきものでした。


 

佐伯)おととし公開されました映画「ソローキンの見た桜」の中でも、ロシア兵が「マツヤマ」と言いながら投降する場面というのがとても印象的なんですけれども、それだけ松山の捕虜収容所というものは特別な収容所だったんですか?

宮脇)ええ。日本で初めて日露戦争の時にできた収容所でありまして、通算29の収容所ができて7万人以上の捕虜が日本にやってきますけども、最初にできた収容所だと。

佐伯)日本で初めてできた収容所なんですね。

宮脇)そうですね、最初ですね。あとは将校ですね。将校と兵卒と分けられますけど、将校が一番多かった収容所でもありますね。

佐伯)どうして松山が最初の収容所として選ばれたんですか?

宮脇)これは諸説あるんですけども、一つの考えとしては開戦の時にですね、今回の戦争の収容所は松山そして丸亀に作るということが一応決まっていましたので、つまり四国に置くんだと。この四国に置くということの意味というのは、まあ色々あると思うんですけども、一つは逃げにくいということですね。脱走してもロシアまでは行けないだろうということもあるでしょうし、いろいろ戦争が拡大しても四国までは達しないだろうということもあったのかもしれませんね。

佐伯)そうして設けられた松山収容所なんですが、宮脇さんが取材された中でどのような特徴的なエピソードがありましたか?

宮脇)これは色んな要素も絡んでは来るんですが、収容所の所長さんが三代いるんですけど、三代目の河野春庵さんが長く勤められたんですけども、河野さんが非常に心が広い方でですね、捕虜の待遇についてはかなり寛容にされたということがありますね。そして地元の方との色んな協力関係を作って…。例えば伊予鉄道ですね、井上要さんがリーダーだったわけですけども、伊予鉄が捕虜の遠足を企画すると。

佐伯)遠足!?

宮脇)捕虜の、兵卒と将校バラバラなんですけど、たとえば将校は、当時もう郡中まで線路がありましたから郡中に行って、たとえば彩浜館で宴を、宴会をするとか。あるいは五色浜にですね、彩浜館の近くに神社があるんですけども、そこにも行くとかですね。あるいは砥部ですね。森松線がもう出来てましたので、森松まで電車で行って砥部まで行き砥部焼の見学をするということもあったわけですね。

佐伯)え~!?これ、あの多分一般的な捕虜のイメージとはかけ離れた生活ぶりだと思うんですけれども、本当に厚遇されていたと言うか自由がある捕虜生活だったんですね。

宮脇)そうですね、有名ですけど道後温泉にも週何回か日を決めて行ってましたし、外に行くことはですね、もちろんは監視はある程度ありましたけども、今の我々が思ってるような捕虜に比べると非常に自由だったということだと思いますね。

佐伯)ですよね。「ソローキンの見た桜」という映画の中でも、食べるものもですね、普通の松山の市民よりもいいものを食べていたのではないかと思わせるシーンもありますし。当時は十分な食事も賄われていたということですよね。

宮脇)そうですね、これは規定としてはかなり厳しく決められていて、衣食住ですね、本当に賄わなければならなかったわけですが、もちろん食材の限定が、どうしても日本ですからありますので捕虜のリクエストになかなか答えることはできなかったわけですね。ただお肉とかお魚自体はもちろんありますので、調理法についてはもう捕虜に調理してもらうこともありましたし、パンも途中からはもう捕虜たちが作るというようなこともあってですね、捕虜収容所の生活としては多様であったということですね。

佐伯)は~。映画で印象的な場面として、コニャック=お酒ですね。コニャックを欲しているのにコンニャクが…っていうような場面もあったわけなんですけれども、ああいうことって実際にあったんでしょうかね?

宮脇)ええ、あの雲祥寺というところも収容所になったんですけども、雲祥寺に伝わってるお話なんですが、雲祥寺のその時いたのは兵卒の方々で、将校はお酒を購買みたいなところが収容所に出来て買う事ができるんですけど、兵卒はお酒原則禁止なんですね。ただ、どうしても飲みたいということで、お寺の小僧さんにですね、「コニャックを買ってきてほしい」と言ったんですけども、小僧さんはコニャックを知らなかった。

佐伯)そうですよね(笑)

宮脇)間違ってコンニャクをいっぱい買ってきたという。けっこうなお金ですからね、いっぱい買ってきたんだと思いますけどね。

佐伯)そのコンニャクはどうなったんでしょう???

宮脇)どうなったんですかね(笑)

佐伯)じつは、こちら「坂の上の雲ミュージアム」の中にも、この捕虜、松山収容所に関わる展示のコーナーがございまして、そこで映像も流れているんですが、その映像を監修されたのがこちらにいらっしゃる宮脇先生ということで。映像を拝見しますとね、なんとその収容所から出て民家に、しかも国から家族を呼び寄せて暮らしていたなんていう方もいらっしゃったようですね。

宮脇)民家居住という言い方をするんですけども、これも規則で、これは日本独自のやり方で認めていたわけですけども、特に旅順で投降した将校さんですね、旅順から家族を呼び寄せるっていうこともありましたし、あるいは本国からという人もいたんですけども、そういう形でですね、妻子とともに居住するということが認められてましたね。

佐伯)ですから、もう本当に一般的に想像する捕虜っていうのと、この松山収容所での捕虜と言うのは全く異なる存在だなという風に思いを新たにしたんですけれども。でも国としてですね、国際条約ハーグ条約が発布されて世界から認められるためにしっかりと捕虜には待遇しなければいけないという国の方針はわかりますが、それをですね、一般市民の方ですよね、自分たちよりも恵まれた食事をしたりですとか、戦った相手の国の捕虜であるというところから、どうしてそんな風に厚くもてなすことが松山では出来たんだとお考えですか?

宮脇)人間ですので両面がありまして、例えば捕虜にですね、不埒なことをした、例えば石を投げたりする人もいたんですが、これは規則で罰せられるんですね。そういうことしてはいけませんってことなんですが、逆にですね、捕虜が散歩とか遠足とか、あるいは買い物をするということがあって、自由散歩も2年目の春から認められるんですけども、そうすると接する機会が非常に増えてきて、そこにはですね、ロシアの軍人なんだけれども捕虜としていて、でも普通の人間であるわけですね。で、文明国から来た人たちですから、松山の人たちにとってもある意味珍しいし、交流をしてみると非常に刺激があるわけですね。英語を喋る人も将校には多かったですから英語を習うということもあったでしょうし、学校の見学に来てもらうということもありましたし、捕虜の方もですね、あの学校はどうなんだろうということで見学をしたりですね、いろんなところへ見に行きたいというリクエストがあって。それを収容所長さんがまあまあ聞いてくれたということだと思いますね。

佐伯)全国に数ある収容所の中でもやはりこの松山人の気質みたいなものも、そのおもてなしと言いましょうかホスピタリティの精神に通ずるところがあったんですかね、もともと。

宮脇)ええ、そうだと思いますね。松山の方のホスピタリティは非常に温かかったということだと思いますね。

   


[ Playlist ]
Roos Jonker – Man In The Middle
Everything But The Girl – Walking To You
Boz Scaggs – So Good To Be Here

Selected By Haruhiko Ohno


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