ゲスト:松山市立子規記念博物館学芸員 平岡瑛二さん

今週、坂の上に訪ねて来てくださったのは、松山市立子規記念博物館学芸員 平岡瑛二さん。軍人として戦果をあげていた水野広徳が、なぜ「反骨の軍人」として反戦の姿勢に転じたのかを語ります。


 

佐伯)日清戦争があって日露戦争があって第一次世界大戦…10年おきに大きな戦争があるわけですけれども、日露戦争と第一次世界大戦というのは、そこまでガラリと変わった戦争だったんですか?

平岡)水野自身が書き残しておりますが、日清日露戦争まではあくまで軍人の戦いだと。一般国民は、もちろん経済的に様々な制約はあるにしろ、実際に兵隊としてとられた人以外はあまり関係がなかったという風に言っています。これに対して第一次世界大戦以降の戦争というのは、国民全員が総動員でかかる戦争であって、もう国の力=国力そのものが試されると。だから同じに考えていてはいけないんだという風なことをですね、水野は盛んに評論家として訴えています。

佐伯)まさにその後の戦争の流れ、一般の国民が巻き込まれていくというのを、先見の明があったと言うか、このままではいけないというところを説いていたわけですね。

平岡)そうですね。

佐伯)でも当時は大いに反感も買ったんじゃないですか?

平岡)そうですね。やはり水野が評論を発表したりとかいうことに関しては、まぁ圧力と言いましょうか反発も当然ありました。特に当時まだ水野は現役の軍人でしたので、現役の軍人がですね、そもそもその文筆活動をすること自体よく思わない人たちもたくさんいたわけなんですね。ですから「此一戦」が大ベストセラーになったのも、やはり水野の事を嫉妬する人もたくさんいましたし。そして「此一戦」の次にですね、「次の一戦」という作品も書いてるんですけど、この「次の一戦」を出版した時にはですね、海軍の方からもお咎めを受けてしまいまして。

佐伯)そうでしたか。

平岡)あの五日間の謹慎処分まで受けている、処罰を受けてるわけなんですね。

佐伯)「次の一戦」というのは、何について書いた本だったんですか?

平岡)この「次の一戦」というのはですね、当時日本とアメリカがだんだんと緊張が高まっておりまして、そういった日米関係をもとに「日本とアメリカが実際に戦争をしたらどうなるか」というのを、軍人としての水野の様々な見識を活かして書いていったもので、最終的に日本は負けるという筋書きになってるんですね。ただ当時の水野は「だからこそ海軍力をもっともっと強くしなきゃいけない」という、まだまだ軍人としての立場がありますので、最終的には「だからもっと海軍の力を強くしましょう」というそういう結論で、この「次の一戦」っていうの書いたんですね。ところが、やはり当時の非常にリアルな国際情勢を扱った本になっておりましたので、様々なところから異常なほどの反響が届いて、それが上司達の目にとまってしまって謹慎処分を受けるというようなことになったようですね。

佐伯)でもそういう海軍の増強というところを説いていた水野が、今度は反戦側に変わっていくという、この大きな思想転換が出来るというのが凄いなあと思うんですけれども。

平岡)そうですね。水野広徳という人は、非常に、物事をちゃんと両面から捉えられる人だったと思うんですね。例えば、少し後の話にもかかって参りますけれども、水野の平和論っていうのありますけども、これは全て水野広徳自身の軍人としての経験とか知識がなければ出てこないものだったと思うんですね。ですから軍人としてやってきたからこそ、平和の大切さと言うか本当の戦争の恐ろしさってのも分かるという、それが水野っていう人の一つすごいところだったのかなと思います。

佐伯)そうして水野が反戦を説くようになって、人生も大きく変わりますよね。

平岡)はい。水野はヨーロッパでの第一次世界大戦の視察を終えて帰ってきて、そしてまた東京の新聞に一つ文章を書いて、そこで2回目の謹慎処分を受けてしまうわけですね。謹慎処分があけるときに「この後どうする?」という風に上司から聞かれまして、「自分はもう考え方が変わってしまって、軍人としての職務と今の自分の信念とがもう両立しない」ということを言いまして、潔く海軍から身を引くという選択をしていったわけですね。

佐伯)そして軍を退いてこちらに戻ってくるんですか、愛媛に?

平岡)いえ、そのまま東京に拠点を置いて、そしてそこから本格的な評論家としての活動に入ってきます。

佐伯)評論家としても、かなり一流の評論家として認められていたんでしょうか?

平岡)そうですねあの大正時代から昭和の初期にかけまして、水野は「中央公論」であるとか或いは当時「改造」というな雑誌もあったんですけども、こういった当時一流の言論誌雑誌に次々と様々な論文を寄稿しまして、例えば日本とアメリカがこのままの緊張状態で戦争したら日本が危ないということを説いたり、或いは軍備をどんどん縮小していかなければいけないとか、様々な評論っていうの発表しまして、当時の世論に影響を与えていくような評論家になっていくわけですね。

佐伯)戦後を生きる私たちから見れば、水野の言った通りになってるじゃないかと思えるわけですが、ただ当時の日本の中にあってそのような意見を述べるというのはとても危険なことではなかったんですか?

平岡)そうですね。特に満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争っていう風に、その後日本は昭和20年までにかけてどんどんと戦争に突き進んでいくわけなんですけれども、そういった中で当然、平和論を唱えるこの水野広徳という人に対しては様々な圧力がかかっていて、水野もなかなか思うように執筆活動ができないという状況にまで追い込まれていくわけなんですね。その頃の気持ちを水野はよく俳句とか短歌にですね、自分の気持ちを込めておりまして。子規記念博物館に水野の掛け軸とかそういったものがいくつか収蔵されてるんですけども、そういった当時の水野の思いが込められているような俳句とか短歌っていうのも、色々と今残っております。

佐伯)そうなんですか。そのあたりに、中学校で同じクラスだった碧梧桐に教わったという俳句の影響と言いましょうか、あと故郷への想いみたいなものもあったのかもしれないですね。

平岡)特に水野は正岡子規とは直接のつながりは残念ながらなかったようなんですけれども、自叙伝、回想録の中でですね、正岡子規が郷土の偉人としては大変大きな人物だっていうのは結構書いておりまして、正岡子規のことはどうも尊敬していたようですね。

佐伯)そうなんですか。いやぁ、だけどその時代に、そのような意見を一貫して唱え続けたというところの心持ち、その支えになっていた物って何だったんでしょうね。

平岡)それは水野自身の「反骨心」という風によく言っていますけれども、「負けたくない」という気持ちであるとか、或いは自主独立って言いましょうかね、もう自分の力で切り開いて行きたいっていうそういう気持ちが、やはり少年時代から強かったんじゃないのかなと思うわけです。

 


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