あなたは、道後に芸者さんがいるのを御存知でしたか?今週、坂の上に訪ねて来て下さったのは、11月に道後にオープンしたばかりのお茶屋「華ひめ楼」の女将、田中美帆さん。気軽にお座敷文化を楽しめるスポットとして注目されている「華ひめ楼」ですが、そもそもの花柳界の仕組みや松山における歴史から、クラウドファンディングやオンラインお座敷体験など今だからこその取組みまで、興味深い華やかなお話をたくさん教えて頂きました。


 

佐伯)田中さんが一体どんないでたちでいらっしゃるのだろうと、これラジオなのでね、それも思ってたんですけれど、綺麗に髪を結い上げて和服で来てくださって本当にありがとうございます。しかも今日のお着物が、いろんなところに招き猫ちゃんが…

田中)はい、気持ちを表してますと言いますか、一生懸命招いております(笑)

佐伯)そうとう今日は招いて(笑)

田中)そうとう招いてます(笑)

佐伯)という田中さんなんですが、気軽にお座敷文化を体験できる所として、この「華ひめ楼」をオープンされたという風に聞いてるんですけど、じつは今日そういう方にお話を伺うってことを会社の中で話してましたら、「え、松山に?お茶屋さんってあの芸者さんがいるとこでしょ?そんなところ松山にあるの?」っていう声が意外とありまして。そういう反応って、やっぱりありますか?

田中)そうですね、あの「お茶屋」ということだけではなく、道後に芸者さんが、芸妓さんがいてるって言うこともご存じない方もいらっしゃるので、「結構いるんですよ」「地道に頑張ってるんですよ」っていうことはお話しさせていただくんですけれども。

佐伯)そもそも「お茶屋さん」っていうのは、どういう存在になるんですか?

田中)そうですね、お客様に芸妓さんが行ってお料理やお酒を楽しんでいただきますと言いますか。

佐伯)なんかその「お茶屋さん」っていう言葉を聞いて、ぱっと思い出すのはやっぱり京都のイメージなんですよね。「お茶屋さん」っていうのは、常時芸者さんがスタンバイしているというか、そこにいる感じなんですか?

田中)お客様の方がですね、お料理とはまた別にお花代をお支払いになって、芸妓さんを呼ばれるのではないかと思います。

佐伯)今思い出したんですけど、「芸者さんの置屋さん」っていう、「置屋」っていうのがあるでしょう?

田中)そうですね、芸妓さんがいわゆる所属している会社と言いますか、プロダクションみたいな感じですね、横文字で言っちゃうと(笑)

佐伯)じゃ、芸者さんの事務所が「置屋さん」で…

田中)で、取次所と言いますか、お客様と置屋にいらっしゃる芸妓さんの間を取り持つっていうのが「検番」なんですよね。

佐伯)は~。確かに「検番」っていうのも聞きますね。そういう役割がそれぞれ違う…

田中)そうですね。

佐伯)「置屋」と「検番」と「お茶屋」がある中の、「華ひめ楼」さんは「お茶屋」さん。

田中)そうです。またそれを、この度「検番」が経営をするということで、「お茶屋」さんと「置屋」さんと「検番」が三つ一緒に合体になったという。

佐伯)それが「華ひめ楼」なんですか?

田中)そうです。

   

佐伯)じゃあ珍しい形態というか。

田中)そうですね。もともと松山は「置屋」と「検番」が別個にカチッと存在してるような感じではなくてですね、一緒なんですよね。

佐伯)へ~。それは松山スタイル?

田中)松山スタイルなんでしょうかね。私も物心ついた時からそんな感じだったと思うので。で、今回はそれにまた「お茶屋」さんがひっつくという感じですね。

佐伯)はっは~ん。松山では「置屋」と「検番」が大体一緒になってたところに、この「華ひめ楼」は「お茶屋」機能が加わったっていう新しいスタイルなわけですね。

田中)そうですね。

佐伯)そもそも松山に、こういうお座敷文化、芸者さんの文化っていうのは結構昔からあったんですか?

田中)そうですね、明治の頃から芸妓さんはいたとは思いますね。

佐伯)明治時代。じゃ、もしかして夏目漱石が東京から来てた時とかにもあったのかしら。

田中)そうですよね。

佐伯)その明治の頃からずっと続いて…

田中)芸者さんの文化っていうのは続いてるとは思うんですけど、やっぱり戦争なんかもありましたのでね、その時にはちょっとやっぱり、そういった華やかなことはですね、駄目だということで…

佐伯)「欲しがりません、勝つまでは」の時代ですものね。

田中)そうですよね。やっぱり食べるものにも困る時代にですね、そういったことは多分無くなったのではないかと思いますね。

佐伯)では、戦後新たに?

田中)はい、そうですね、それこそ先人の方たちが努力なさって再開されたんだと思います。

佐伯)そうですか。そんな中で、田中さんは、この業界と言えばいいのか分からないですけど、花柳界っていうんですか、そこに身を置かれたっていうのはいつ頃から?

田中)もともと母が検番をしてましたので…

佐伯)あ、そうなんですか。

田中)はい。なので、物心ついたときから別に全然その違和感なくそこにあったものだったので、18の時からお座敷は上がりました。

佐伯)そうなんですね、御実家が検番。なんていう名前の?

田中)「あけぼの席」です。

佐伯)「あけぼの席」、これは道後の?

田中)はい、そうです。

佐伯)道後に、その「検番」と「置屋」が一体っておっしゃってましたけど、そういう所って何箇所かあったんですか?

田中)大変昔の話は恐縮ですがちょっとよくわからないんですけど、うちの母の時代だけでもやっぱり「あけぼの席」みたいな感じの「検番」さんは四十数軒、五十軒近くあったと思います。

佐伯)そんなに!

田中)はい、なので各検番に、うちも12名ほど所属してましたので、少ないとこでも5名ぐらいはいたので、だから数百人の芸妓さん達がいたと思います。

佐伯)松山界隈に?

田中)そうです。

佐伯)そうだったんですね~。

田中)だから、道後温泉の春祭りで芸妓連っていうのが出てですね、踊りをずっと踊るんですけど、それこそなんか2両編成みたいな、2列で行ってもずっと長い間この長い列が作れるぐらい芸妓さんいたんですけど、もう今は本当なんか市内電車みたいにシュンっと!

佐伯)例えが面白い(笑)

田中)一両でシュンって終わるぐらいなんですけど。

佐伯)そうでしたか。お母様が女将さんだった頃っていうのは、昭和のいつ頃なんでしょう?

田中)母も自分で検番を立ち上げる前は、よその検番でずっと勤めたりしてたので、まだ私もその頃は子供でしたのでちょっと詳しいことはわかりませんけれども。昔は株組織になってたので、検番の株を買って置屋を作るみたいなことがあったみたいなんです。だからその連合会じゃないですけど、その数十件…40件50件ぐらいが検番連合会みたいなものを作って組合みたいなのもありましたね。

佐伯)いやあ、そんなに華やかな一定規模の存在だったっていうのがちょっと意外に思う方もいらっしゃるかもしれませんね。

 


[ Playlist ]
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Selected By Haruhiko Ohno


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