今週、坂の上に訪ねてきてくださったのは、今治市総合政策部交流振興局文化振興課学芸員の田中謙さん。田中さんには以前、村上海賊ミュージアム学芸員として何度かご出演いただいたのですが、今回は異なる立場で「丹下健三に学ぶ」をテーマにお話を伺いました。「世界のTANGE」と呼ばれる、日本を代表する建築家である丹下健三。その特別展が、今治市民会館、玉川近代美術館で9月28日まで開かれています(河野美術館分は既に終了)。今治市で幼少期を過ごした丹下健三と今治との繋がりなどを、「軸線」「丹下建築と今治の都市設計」「丹下健三に学ぶ未来へ向けたまちづくり」という3つのキーワードで掘り下げます。
※番組のトーク部分を、ラジコなどのポッドキャストでお楽しみいただけるようになりました!ぜひお聞きください。
佐伯)戦争っていうことは、丹下には影響はなかったんですか?
田中)非常に大きな影響があって、一つそれが今治空襲というところですね。今治の空襲が1945年にあるわけなんですけども、実は8月の2日、1945年8月2日にお父様が亡くなられて、今治に帰省をしようとしていたんですけども、なかなか戦時中で電車の切符が買えなくて。4日経ってやっと8月6日に、こちらに向かえたわけなんですね。1945年の8月6日といえば原爆が投下された日で、汽車の中で、その広島に原爆が落とされたっていうのを知ったと。丹下先生にとっては第2の故郷なので、すごくショックを受けるんですけども、今治にたどり着いて、そこで見た光景というのがやっぱり空襲で焼け野原になった姿で。8月5日の夜から6日にかけて今治も空襲に遭っていてですね、実はそこでお母さんもなくされてしまってるんですよ。ですので、8月2日から6日にかけて、お父さんもお母さんもなくしてしまうというですね、そういった壮絶なエピソードがあるわけなんですね。
佐伯)終戦直前、ということですよね。
田中)そうですね。で、自分の住んでいた実家ですね、も焼け野原になっていて。ただ親戚たちは朝倉っていうところ、朝倉に親戚がいてそこに移ってるというところで兄弟は無事だったというふうに言われてますね。
佐伯)そうでしたか。そのような経験をされたからこそ、戦後の復興でも大きな力を振るったということなんでしょうか。
田中)そうですね、戦後復興を日本の都市の中でやっていく中で、丹下が選んで志願したのは広島なんですよ。周囲からは止められたというふうに言われているんですけども、丹下研究室っていうのが東京帝大に出来てですね、広島の復興のコンペ案というのを作成していくと。それが採用されていくという流れになっていくんですね。
佐伯)当時ですと、世界で初めて落とされた原爆ということで、その後の後遺症であったりだとか、何が起こっていくのかっていうことが、もうみんな全くわからない中でいわれなき差別であったりとかデマなどもあったと思うんですけれども、そういうことにひるむことなく、第2の故郷ということで広島復興を志願したという…
田中)そうですね。後々その原爆が落ちた日に今治に向かっていて、さらにお母様を空襲でなくされたということもあって、やっぱり強い思いっていうのがあったんでしょうね。
佐伯)その思いを込めて広島復興を手がけていくわけですよね。それがどんなものだったのか、教えていただけますか。
田中)そうですね、広島の平和記念公園っていうものを設計していく中で、大きなことって言えばやっぱり「原爆ドームを残すのかどうか」というですね、そういう問題にも遭ったそうなんですね。やっぱり「見たくないから壊すべきだ」という方もいらっしゃれば、「残した方がいい」という方もいたんですけども、丹下先生はですね、原爆の残忍さ、悲惨さっていうものを永久に忘れないために「残す」という案を提案した、ということになりますね。そういったプランというものが百数十件の応募の中から1位に選ばれて、広島の復興に関わっていくということになっていきます。
佐伯)140件の中から選ばれたもの。今年戦後80年ということで、もちろん広島平和公園をニュースなどでね、見ることも多いんですけれども、それを手がけたのが丹下健三ということですので、改めてその平和を思う気持ち…今治に帰ってくる途中で原爆が落とされた、そしてその今治に帰ってくる直前に空襲で故郷も焼け野原になっていた、そこで、そういったものに対する思いを込めて作られたのがあの公園だっていう、改めてちょっとそういう目で見てみると違ったものを何か感じられそうですね。
田中)そうですね、先ほどのここのキーワードである「軸線」というところなんですけども、いわゆる「平和の軸線」と言われていて…
佐伯)「平和の軸線」?
田中)そうですね、たぶんお気づきになると思うんですけど、平和資料館があって、慰霊碑があって、原爆ドームがあって、一直線なんですよね。
佐伯)ああ!
田中)で、平和資料館も東館があって、会議場があって、それはその原爆ドームに向かう縦の線に直交する、交わる、横の線なんですね。という形で、いわゆる「平和の軸線」って言われてますけども、資料館があって慰霊碑の見据える先に原爆ドームがある。こういった設計になってるんですよ。それは伊東豊雄先生という建築家の先生などの言葉をお借りすると、「復興に向かっていく国家が示す道であって、すごく力強い線だ」というふうな表現もされている方もいらっしゃる。そういった「軸線」っていうものをですね、しっかりと明示されている。今後日本が進むべき道っていうのがそこに示されているんじゃないかというふうに言われてますね。
[ Playlist ]
Sade – All About Our Love
Mario Biondi & The High Five Quintet – On A Clear Day
Boz Scaggs – So Good To Be Here
Selected By Haruhiko Ohno