今週、坂の上に訪ねてきてくださったのは、宇和島市立伊達博物館学芸員の渡邊佑輝さん。現在、伊達博物館では企画展「幕末ラプソディー-宇和島×米・蘭・英-」が開催中です。幕末の宇和島藩といえば四賢候の一人である伊達宗城を想起する方が多いと思いますが、当時の宇和島藩と関わりのある偉人や、宇和島藩がアメリカやオランダ、イギリスとどのように関わり、その関係が宇和島藩にどのような影響を与えたのかなどを掘り下げている企画となっています。そこで今回は「外国と向き合った宇和島藩と、ゆかりのある偉人たち」をテーマに、「宇和島とアメリカ ペリー来航の資料から」「宇和島とオランダ 情報収集の手段」「宇和島とイギリス 来航の裏側」というキーワードで、幕末の宇和島を掘り下げます。

番組のトーク部分を、ラジコなどのポッドキャストでお楽しみいただけるようになりました!ぜひお聞きください。


佐伯)大村益次郎との繋がりはどうなんですか?

渡邊)そうですね、大村益次郎…戊辰戦争のときとかですね、やっぱ有名ですけど、まだ無名な時代なんですね。益次郎というのは昔、緒方洪庵という人物のですね、「適塾」というところで学び…

佐伯)洪庵先生に。

渡邊)洪庵先生に学び、塾頭を務めていたような人物なんですけれども。その後にですね、医者として故郷・山口に戻っていったんですけど鳴かず飛ばずでうまくいかなかった。そんなときに宇和島に呼ばれたと言われているんです。

佐伯)へぇ~。で、宇和島ではどのようなことを?

渡邊)益次郎もですね、当時は村田蔵六とも言われていたんですけども、(高野)長英と同じような感じですよね。要は益次郎を呼んだ理由の一つとして考えられるのは、長英の後釜を探していたっていうのがあると思うんですよね。だから、その益次郎=蔵六が来て同じように蘭学者の育成だとか実地をして、一つ大きなキーワードで挙げようとするのであれば、軍艦の製造に関わっていたんじゃないかとかいうようなですね、そういうような実績があるわけなんですね。

佐伯)はい。いずれにしても今後、蘭学に長けた人が必要だっていうことでいろいろな人材を登用するという。

渡邊)そうですね。

佐伯)でもさっきの長英の話もありますけれども、例えばその身分だったり経歴だったり…大村益次郎も当時は無名ってことでしょう?殿様、呼ぶにしてもあんまり過去を気にしないというか…

渡邊)ははは(笑)。本当に実力重視だったんだと思います。長英であったり益次郎もそうですけども、実際宗城に関わったかどうか、おそらく関わっているんですよ。関わっていると思うんですけど、そういう身分とか経歴にとらわれず、要は実力という視点でですね、大胆な人材登用…

佐伯)大胆な。

渡邊)ですね。やはり行っていたということでですね、やっぱ宇和島っていうのが、他のところよりもちょっと秀でていたんじゃないかなっていうところがあるわけですね。

佐伯)幕府からも一目置かれる存在であったということなんですね。

渡邊)当時薩長土肥とよく言いますけどね、その中に宇和島が入り込むぐらいですね、やっぱ宇和島っていうのは最先端という、言い方はあれですけども進んでいた土地だったと思われるわけなんですね。

佐伯)なるほど。で、益次郎はどんなものを残したんですか?

渡邊)そうですね、益次郎もですね、長英と同じように翻訳した書とか、実際に益次郎直筆の本とかも残っているわけなんですよ。さっき軍艦と言いましたけれども、益次郎自体が軍艦を最終的に作り出したわけではなく、今回はあまり触れてないんですけども前原巧山という人物がいたわけなんですね。前原巧山っていうのは要は職人、宇和島にいた。提灯とかを作っていた職人とかを、同じですよ、全く無名ですけどね、登用して最終的に蒸気船というのをですね…

佐伯)え~っ、提灯職人が蒸気船を!すごいですね。

渡邊)そうなんです。日本で作った蒸気船、薩摩藩が一番最初に作った。2番目が宇和島藩。

佐伯)へ~!すごいじゃないですか。

渡邊)変に誇りに言うとですね、2番目なんだけれども「純国産」。要は薩摩藩っていうのは海外の人とかの力を借りて作ってた。でも宇和島ってのは日本人の手だけで作ったそうなんですよね。

佐伯)ほ~。

渡邊)「純国産」という意味で言うのであれば一番なんじゃないかなというような、そんな話もあるわけです(笑)。

 


[ Playlist ]
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Selected By Haruhiko Ohno


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