今週、坂の上に訪ねてきてくださったのは、今治明徳短期大学地域連携センターのセンター長で地域史研究家の大成経凡(おおなるつねひろ)さん。地域の教育・文化活動の拠点としての役割をもつ地域連携センターのセンター長を務めながら、しまなみ海道の近代化遺産についての研究や、地域ゆかりの偉人たちの顕彰、さらには地域の方々と一緒に地元を歩いて歴史を学ぶイベントの講師をされるなど、精力的に活動されています。今回注目したのは、来島海峡に浮かぶ周囲約3kmの小島(おしま)。「戦後80年 小島を巡る」をテーマに、「海上の城ラピュタ」「奇跡の戦時遺産」「小島で唯一爆撃を受けた場所」をキーワードにお話を伺います。

番組のトーク部分を、ラジコなどのポッドキャストでお楽しみいただけるようになりました!ぜひお聞きください。


大成)敵艦は来なかった。ただ、28cm榴弾砲の小島にあった2門はですね、解体されて大陸に持っていかれて二百三高地のね、旅順のね、要塞陥落に実は使われてるんです。だから要塞は使われなかったけど、そこにあった大砲は持っていかれて戦争に使われているということ。6門あった28cm榴弾砲ね、最終的には他の4門も全部外されて、何らかの役割をね、移された場所で果たしているというようなことなんですよ。だから、バルチック艦隊が来る頃には、もう小島には28cm榴弾砲はなかった。

佐伯)そうでしたか。

大成)ただね、これガイドしてるときにですね、しまなみ海道が架かった20何年前っていうのは「使われなかったのはいいんだけど、売ったというのはどうなのか」っていうことですよね、よく聞かれたんですよ。その後ですね、私もいろいろ調べました。そしたらですね、明治32年から土木工事が始まって、35年に土木工事が完了すると。明治35年というのが1902年なんですけど、開戦は1904年なんですけど、土木工事が完了した後に今度、大砲を備えなければいけない。実射訓練しなければ、実際来たときにね、対応できないんですよね。そこで実際に大砲を据えて打ってるんですよ。

佐伯)訓練として。

大成)はい、訓練。それが当時の、愛媛新聞の前身の海南新聞の記事にちゃんと書かれてるんです。それを私はマイクロフィルムで愛媛県立図書館で見つけましたよ。そしたら実際に6門ちゃんと据わって、そして最初は単発でドーンドーンと打ったんですよ。最終的には連射です。だから敵の船は動いてくるから、それに合わせて6門それぞれ着弾点が違えば、どれかが当たればいいんですよ。で、今ね、今治市波方町の大角海浜公園という高縄半島先端の非常に風光明媚な場所、あちらの背後ですね、だから小島から見れば背後、ちょうど松山あたりをどんどんどんどん北上してきて来島海峡迫ってきました。その背景に赤い灯標が立っている千間磯ってあるんですけども、それを飛び越えて、その奥には関前の岡村島とか呉市の大崎下島ってあるんですが、そこに小舟を浮かべて旗を立てて、それを目指して実射訓練で打ってて、その小舟を沈めてるんですよ。

佐伯)へ~、そうなんですか。

大成)連射したときの勢いがすごかったのは、波止浜っていうのは当時波止浜町ですけども、まだ波止浜村か、塩田で栄える港町なんで旧家がいっぱいあるんですけどね、そこの旧家の障子がブルブルブルブルって震えるぐらいの振動。

佐伯)それぐらいの衝撃が!

大成)そうなんですよ。そういうのがあったということを見つけて、だから当時の人々は戦争をね、戦時体制下、そういったものをね、非常に敏感に感じ取っていたんだろうなっていうことを知ることができたわけなんですけどね。

佐伯)なるほど。実戦でその場で使われることはなくって

大成)解体して。

佐伯)解体して、大陸の方では使われたと。じゃ、残ってるのは、その砲台跡っていう…

大成)南部砲台と北部砲台は、大砲残ってたんですよ。ところがこちらはですね、太平洋戦争、だから80年前の戦争の終わり頃になると、金属供出ってのありましたよね。資材がどんどんどんどん資源がない日本でしたので無くなっていくと。お寺の釣鐘も持っていかされるとか、家の鍋・やかんも供出しろとかね、ああいう流れの中で外されたんです。

佐伯)そうですか。で、砲台跡ということになって

大成)そうです、土木遺産ですよね。戦争土木遺産が残っているというふうなことなんです。

 


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Selected By Haruhiko Ohno


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