今週は、南海放送本町会館から生放送でお送りしました。坂の上に訪ねてきてくださったのは、一般社団法人お城下松山理事で文化観光委員会委員長の日野二郎さんと勝田銀次郎顕彰会会長の一色敏郎さん。松山出身の実業家で政治家でもあった、勝田銀次郎についてお話を伺いました。親日国として知られるトルコですが、勝田銀次郎は日本とトルコの友好関係構築に大きな影響を与えています。その理由が「平明丸事件」。番組では、海運業で財を成すまでの歩みや「世のため人のため」に尽力した功績についても詳しくお伺いしました。
※番組のトーク部分を、ラジコなどのポッドキャストでお楽しみいただけるようになりました!ぜひお聞きください。


佐伯)番組の前半で、日本とトルコの友好関係に影響を与えたんだ、それが平明丸事件だということは伺ったんですけれども、この平明丸事件どんな事件だったのか教えていただけますか。

一色)そうですね、平明丸っていう船なんですけど、6000 t ぐらいの船ですね。船籍は松山市三津浜です。その船がなぜ急に有名になったかと申しますとですね、100年前の出来事なんですけれども、トルコの映画監督ハイリエ女史のドキュメンタリー映画「平明丸 母国トルコへ帰るとき」によって広く知られるようになりました。

佐伯)はい。

一色)この監督はですね、そのとき助かった捕虜たちの…、すみません、これから捕虜をですね、俘虜と呼ばせていただきます。ちょっとややこしいんですけども。

佐伯)同じ意味ですかね、捕虜も俘虜も。

一色)どちらも同じ意味なんですけども、第二次世界大戦までは日本的には俘虜って呼んでたんですね。ですから第一次世界大戦あたりは全部俘虜ですね。ですから慣行に従ってそのように表現させていただきます。それで大正7年8月、日本はですね、チェコ俘虜の救出を名目に、シベリア出兵をイギリス、フランス、アメリカと共同で開始しました。その最中、英国を通じてトルコ赤十字社が日本政府へ、シベリア各地でロシア軍の俘虜となっているトルコ兵とウラジオストック俘虜収容所にいるトルコ人1000名余名を、母国トルコのコンスタンチノープル、今のイスタンブールですね、まで帰還させてほしいとの依頼がありました。大日本帝国はこの依頼を了承して、大正10年2月23日、勝田汽船の平明丸を傭船、すなわち傭船とは船を雇うことです。陸軍の津村中佐を指揮官に任命し、吉田真陸軍参謀大尉、中村競陸軍第一衛生病院軍少佐、通訳一名、主計官一名と勝田汽船の田村一得を船長に任命し、トルコ人俘虜とともに平明丸に乗船。ウラジオストックを出港しました。これでトルコ人たちは、俘虜生活から自由への旅立ちが始まったわけです。

佐伯)はい。

一色)45日ぐらい続く予定の航海の間、船は水を買うために立ち寄るコロンボ以外に立ち寄らない予定で、スエズ運河を通ってまっすぐにイスタンブールに向かう予定となっておりました。

佐伯)45日間の予定の航海だったわけですね。

一色)そうですね。たまたま台風が来たんですけども、このとき2月25日なんですけれども、船が出港してまもなく日本海はですね、狂ったような波が出始め、真っ暗な船の中で、嘔吐する者や気絶する者のが出ました。

佐伯)ああ、気絶するぐらいな大荒れの航海になっちゃったんですね。

一色)自由への旅路の最初にですね。暗闇の中で起こっているのか誰もわからなかったんですけど、朝を迎えました。何が起こってるかわからなかったんです。

佐伯)わかんないけど闇の中でゴロゴロゴロゴロ転がって、みんな気持ち悪くなってっていうことですか。うわー。

一色)明け方、海も凪いだようで、津村諭吉中佐がトルコ人たちに対し、「朝鮮半島を超えるところで暴風雨に出会い、私達は大変な災害を切り抜けました。連絡が取れなくなった船の所有者・勝田汽船は必死で平明丸に連絡を取ろうとしたようです。先ほどようやく連絡が取れて喜んでいました。そして船にいる仲間たちにお疲れ様とお祝いの言葉を伝えてくださいとお願いされました」と伝えた。第1関門突破というところでしょうか。

佐伯)とりあえず台風に飲み込まれることはなかったということですね。

一色)はい、航海の大変さの一番の時化ですね。

佐伯)はい。

一色)その平明丸は、唯一の寄港地コロンボ港を経由し地中海に入りましたが、当時トルコ軍と戦闘状態にあったギリシャの戦艦ヘラクレス号の合図で数隻の魚雷艇が立ちはだかり、拿捕されてしまいます。

佐伯)ええ!

一色)このときですね、指揮官・津村諭吉中佐は、ギリシャ人の主張する俘虜の引き渡しに応じなかったため、船ごと全員、現地ギリシャのペレウス港に抑留されることになりました。

佐伯)なんと!

一色)このときはずいぶん大変な交渉だったようで、日本人の兵隊たちも皆、腰の拳銃に手を当てて、もう一発すぐでも当たるような感じ、交戦になるような感じの交渉だったみたいですね。日本政府はギリシャに対し、平明丸の無条件解放を求め外交努力を重ねましたが、交渉は難航し、無駄に時間だけが流れました。ギリシャ政府はその間、戦場の者に食料や物資供給もきちんと配給しませんでした。

佐伯)そうなんですか。もうこれかなり厳しい状態に追い込まれていたということで、乗組員とかその俘虜っていうのはどうなったんですか?

一色)乗組員も俘虜も同じ扱いでしたね。日本人の乗組員もですね、最大の苦悩は飢えと水不足です。

佐伯)それも届けてもらえないわけですからね。

一色)そうです。さらに乗組員たちの衛生状態は日を追うごとに悪化します。この当時の資料は、平明丸がギリシャ艦隊により抑留されてより、今や2ヶ月。同船日本将校の電報によれば、トルコ俘虜中には絶望のあまり発狂し、又は自殺する者すら生ずるに至るなり。と本国日本に打電しています。田村一得船長より本年4月15日頃、ギリシャ官憲より食料の供給を受けることになった旨、打電ありたるも、その後通信途絶し」、これ原文のままですけど、そのような状態で連絡も取れなくなりました。

佐伯)はい。

一色)その後、日本は船長との直接のやり取りができなくなったため、英国に安否の確認を頼んでいます。依頼を受けた英国領事は、その後平面丸船長止め直接面会し、面会内容を日本に伝えてきました。その内容とは、トルコ将校は一般的に不愉快、貧弱なる食料、石鹸の不足および不完全なる衛生設備につき不平を述べた。薬の蓄えもあまりなく、トルコ兵俘虜66人病人あり、その中にはチフスなど伝染病患者あり、俘虜の中には遂に自分はトルコ人ではないと主張する者まで現れる始末です。

佐伯)そうなんですね、チフスにかかったりとか、もうこんな酷い目にあうくらいなら自分はトルコ人じゃないよって言ってしまうぐらいな状況に…

一色)そうですね、はい。

佐伯)一方で、その日本人乗組員はどうだったんですか?

一色)これはまだ抑留されて最初の頃だったんですけど、それから8月9月まで抑留されるわけです。だんだんひどくなってきまして、残念ながら日本の側の関係者にも犠牲者が出てしまいました。まず、田村一得船長病死。

佐伯)船長が!

一色)はい。火夫=ボイラーマン森岡某氏病死、吉田大尉他数名チフスに感染し生死をさまよう有様であったと、大正12年発行の神戸市史に記載されております。

佐伯)そうなんですか。船長もボイラーマンも亡くなってしまうって、もう信じられないような状況ですね。

一色)そうですね、はい。田村船長については、銀次郎が日本政府に対し、日本との交渉過程と結果が詳しく外務省の資料に残っており、残された家族に弔い金として当時の金額で1000円支払われています。

佐伯)そうでしたか。そのころ勝田銀次郎はどんな行動をとったんですか?

一色)そうですね、そのころ銀次郎は神戸市議会議長として欧米視察中でした。

佐伯)へ~。

一色)欧米ですね。特にそのとき本人はニューヨークにいました。ニューヨークの各地をですね、見て回ったりしてたんですけども、なかなか解決しないので、いち早く銀次郎はイギリスに渡り、この難局をですね解決するためにロンドンからパリに3回、ローマに1回、平明丸解放のために尽力したわけです。どのような尽力かと申しますと、それはジュネーブの国際連盟会議の問題にあがり、大使・石井菊次郎委員長との仲により…昔から仲良かったわけですね。

佐伯)そうなんですか。

一色)国際連盟の会議の中で人道上力説したわけです。

佐伯)はい。

一色)そのとき駐英大使・林権助、駐イタリア大使・落合謙太郎も力を合わせ、各国の同情を得て、遂にギリシャ軍赤十字社の手に引き渡し、抑留以来160余日で平面丸は解放されました。

 

 


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Selected By Haruhiko Ohno


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