今週、坂の上に訪ねてきてくださったのは、松山兎月庵文化歴史館館長の小椋浩介さん。テーマは「道後を中心に見た古代から近代まで」です。先月、「5年半におよぶ保存修理工事を経て、道後温泉本館が全館営業再開」というニュースが話題になりましたが、小椋さんは「道後温泉誇れるまちづくり推進協議会」で道後の歴史を講義されたり、グランドデザインを担う方々を対象とした伊予の歴史についての座学などでも活躍されています。今回は「実は、中間拠点だった道後温泉」「河野氏と秋山好古と」「伊予の湯桁」というキーワードで、道後の歴史にまつわる大変興味深いお話を伺いました。
※番組のトーク部分を、ラジコなどのポッドキャストでお楽しみいただけるようになりました!ぜひお聞きください。


佐伯)では、一つ目のキーワードです。「実は、中間拠点だった道後温泉」ということなんですが、これはどういう意味でしょうか?

小椋)はい。古代からですね、天皇が行幸という…天皇が来られることを「行幸」といいます、皇后、皇太子が来られることを「行啓」といいます。

佐伯)はい。

小椋)この言葉を紐解くと、道後ってのは圧倒的に「行幸」が多いんですね。

佐伯)そうなんですか。

小椋)その他の温泉もやっぱり「行啓」というのはたくさんあるんですけれども、「行幸」という言葉が道後は特別なキーワードになります。これに関しましては、九州平定という、当時の大和王朝の前ですね、大和王権というところで、九州を平定していくときにどういうルートでどういうふうに交渉していくか、平定していくかというのが、歴史構造体というふうに考えております。

佐伯)じゃあ、天皇が九州平定に向かうまでの拠点が道後温泉だったということですか?

小椋)そういうことです。

佐伯)これはどういうルートだったんでしょうか?

小椋)これはですね、当時の瀬戸内海というのは、いわゆる海賊だらけ。いわゆる治安がないといっても等しい言葉だと思うんですけど、それで陸路で来られた形跡があるんですね。淡路に渡って陸路から、そういうルートがあります。これが後中世には「南海道」と呼ばれるルートですね。

佐伯)ええ。実はこの「南海道」が南海放送の社名のもとにもなっているという。

小椋)ああ、そうですね。

佐伯)はい、関わりがここで出てくるわけなんですけれども(笑)。

小椋)それに関しては道後も「南海・道」の・後ろ側ですね、ですから“道後”という名前になっております。

佐伯)あ、なるほど!

小椋)「南海道」の終点が今治なんですね、今治に国府がありましたから。「南海道」の終点というかどこへたどり着くかというと、今治なんですね。その国府の後ろにある“道後”という地名がついております。

佐伯)そうでしたか!その道後がこの中間拠点になっていたと。九州平定という目的に向けての拠点なわけですから、別にあの…湯浴みに来ていたというわけではないんですね(笑)

小椋)それに関しましてはですね、大事なことをなす前には沐浴をするという…、体を清めて大事なことに臨むという、後でお話します「斎戒沐浴」というところに繋がってまいります。

佐伯)そうなんですか。そういう目的もあったと。これらの、それこそエビデンスっていうのはどんな書物に記されているんですか?

小椋)これはですね、伊予國風土記という、伊予風土記とも言いますけど、これは逸文なんですけれども、その中に景行天皇からのくだりがございます。

佐伯)はい。どんなふうに記されているんでしょうか?

小椋)まず、当時は皇紀という年代を使うんですけど、わかりやすく言うと西暦132年、弥生時代ですね。弥生時代後期に、「景行天皇が八坂入姫を伴って道後温泉に行幸す」というくだりがございます。

佐伯)そうなんですか、西暦132年に。いやその歴史が慮られますね。

小椋)はい。これは、いわゆる聖徳太子がよく語られますけど、聖徳太子行啓の500年前になりますね。

佐伯)は~、そうですか。そういう意味では、天皇が道後温泉に立ち寄られたっていうことには、道後温泉の泉質云々ではなくて、ちゃんとちょうどいい場所にあったっていう意味があったんですね。

小椋)そうです、そうです。これは清めた後に大事なことに向かい合うという、日本人独特の考え方があります。

 


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Selected By Haruhiko Ohno


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