今週、坂の上に訪ねてきてくださったのは、松山歌人会会長の片上雅仁さん。片上さんはこのほど、松山出身で大正から昭和にかけて活躍した画家・八木彩霞の評伝を上梓されました。タイトルは「波乱万丈の画家 八木彩霞」。その帯には「人生行きづまると、必ず救いの神が現れてなんとかなる、という福々しさ。美男で美声、女性によくモテた。画家にして文人・思想家・教育者。政府の秘密工作員もやった。」とあります。その波乱万丈の人生を、「森永ミルクキャラメル」「関東大震災と大バクチ」「終生の友」というキーワードで紐解いていただきました!
片上)横浜開港50周年記念の資料展があるっていうので、「あなたはわりあい肖像画を描くの上手じゃないですか」っていうんで、横浜市議会の議長から依頼が来て、幕末の横浜開港頃ですね、大老・井伊直弼とかね、アメリカの総領事ハリスとか、それからなんつったって日本開国させたペリーとか、有名人の肖像を皆もう写真から起こすしかないんでしょうけど、描いてくれと。5枚描いたんですね。これ、大いに評判になりましてね、当時、日本の西洋画の中で一番権威を持っていたといわれます黒田清輝なんかも褒めたそうでございますけど。実はこれを見に来た渋沢栄一…


佐伯)はい、お札になる。

片上)お札になる、あの大実業家の渋沢栄一なんかが、あの偉いさんたちが「いっぺんこれ描いた人と話をしたい」っていうんで、お話しに行ったんですよ。そしたら、渋沢さんはね、「あなたは実業家に向いている」と。

佐伯)へえ~。

片上)「私と一緒にやりませんか」と。

佐伯)あの渋沢栄一が!

片上)あの渋沢栄一が。「私がまず最初に道をつけますから、一緒にやりませんか。あなたは出来る。」とか。それから金子健太郎という、これも大物政治家がいたんですけれども、この人は「あなたは政治家に向いてる。」と。「私が道つけますから、あなた政治の方行きませんか」と、お誘いがあった。

佐伯)もう各界から注目の的だったんですね。

片上)「こいつ、なかなかの奴だな」と。その世界の大物が見て、実業家とかね、政治家とかが見て、「こいつ、なかなかのやつだな」と当時すでに思われるだけのものがあったんですよね。

佐伯)は~。そういう人物だからこそ、番組の最初でおっしゃった、「天皇陛下の肖像画を」なんていう話も入ってくるわけですか。

片上)そうなんでしょうね、だと思います。

佐伯)これ、どういう経緯だったんですか、天皇の肖像画っていうのは?

片上)だからこれ(有名人の肖像画を何枚か)描きましたね、横浜で。そしたらその後、宮内省から「明治天皇の肖像画がないので、欲しい」と。「写真から起こして、しかるべきものを描いてくれないか」と言われて、恐れ多くも天皇陛下の…前の天皇陛下ですけど、肖像画描くってのは当時大変なことでしてね。

佐伯)ですよね。

片上)で、お引き受けしてちゃんと描いた。

佐伯)でも「愛媛・松山出身の人物が、もう天皇陛下の肖像を書くぐらいまでになってるぞ」っていう評判は、もちろんこの故郷・愛媛にも聞こえてきてるわけですよね。

片上)そうそう。もうこの辺になりますと松山へ帰省したら、“八木画伯”と言われるようになって。

佐伯)おお。そんな中、萬翠荘の絵を?

片上)はい、その後ちょうど萬翠荘が建設されるということで、あの萬翠荘の中の2枚の、ちょっと高いとこに掲げてある、壁画って言ってます。あれは油絵で書いたのをはめ込んであるってことなんですけれども、それを要は久松家からの依頼で描いてくれって言われて。一枚は松山平野を三坂峠の辺りから見下ろした、穏やかで豊かなとこでしょっていう。もう一つは横浜なんですよ、これ、神奈川台場って言いますね。幕末に防衛のために海岸、各地に砲台場を作った。台場って砲台場のことなんです。そのうちの神奈川・横浜の沖に、8000坪からの人工の島を作って、大砲十門ほど備えて、敵の艦隊がやってきたら陸から撃つぞという。それを「これ松山がやれ」って言われましてね、松山藩7万両をつぎ込んで、延べ30万人の労働力をつぎ込んで、でも1年間で完成させたっていうね、はい。彩霞もこれ、松山藩がやった仕事だってわかってましたから、横浜行ってから非常によく研究…文献も研究してるし、スケッチなんかもたくさんしてますね。ちょうどそういう彼だから、久松家としても「八木さん描いてくれませんか」と、こうなるわけですよね。

佐伯)久松家にとっても、天皇陛下の肖像画を描いた人に、萬翠荘で飾る絵を描いてもらうっていうのは誉れなわけでしょう?

片上)そうそう。しかもですね、萬翠荘が完成した直後に最初のお客様で来た人は、当時は大正天皇の摂政にして皇太子であった博仁親王、後の昭和天皇ですね、がいらっしゃると。松山藩は幕末、徳川の親藩だったからずっと徳川の味方をして、おかげで薩長新政府からは一変、朝敵=朝廷の敵と言われる。賊軍と言ってレッテル貼られちゃったとこなんですけれども、以後松山藩出身者はいろんなところで不利な目に遭うわけですが、それの雪辱を期すると。なんつったって摂政がやってくるわけでしょ、事実上の天皇がやってきて、そこへ泊まる。そこに神奈川台場の絵を描いといて、決して日本を裏切ったわけじゃないと、松山藩はね。幕末から、この豊かさでもって育んだ財政力を惜しげもなくつぎ込んで、こうやって国防に尽くしていたんだというようなことを言いたかった。実は明治天皇の肖像画を描いたらですね、そのときの摂政だった博仁親王はいたく気に入って、「ちょうど神奈川県庁へ行く用事があるから面会に来てくれ」って言われて、お褒めの言葉を賜ったんです。「いいの描いてくれてありがとう」って。そんな縁のある人に描かせると。決して松山藩は日本国を裏切ったつもりはないというふうに、その雪辱ですな。

佐伯)あの絵にそんな意味が含まれていたんですね。

片上)久松家としてもそういう意味を込めた。八木彩霞もそれをわかってて描いたと思います。

※番組のトーク部分を、ラジコなどのポッドキャストでお楽しみいただけるようになりました!ぜひお聞きください。

 

 


[ Playlist ]
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Batteaux – Tell Her She’s Lovely
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Selected By Haruhiko Ohno


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