今週は、「坂の上の雲ミュージアム」特設ブースからの生放送!ミュージアムで行われる記念講演「世界から見た日本海海戦と秋山真之」のために来松された、名城大学教授の稲葉千晴さん、イスラエルのハイファ大学教授で東アジアセンター長のロテム・コーネルさんをゲストにお招きしました。講演直前の放送では「ポーランドと日本、捕虜と松山」をテーマに、けさ足を運んできたという松山のロシア兵墓地から見えてくるもの、松山に日本で初めて設置された捕虜収容所の歴史上の意義などを丁寧に紹介してくださいました。今回の公開放送には、なんと東京から偶然いらっしゃったという秋山好古の曾孫の女性も参加してくださるなど、思い出深い放送となりました!


佐伯)きょうは公開生放送ということで、私たちの話している様子を何人かのお客様が聞いてくださっているんですが、今、大変な方が駆けつけてくださいまして…というのが、なんと秋山好古さんの曾孫の女性が駆けつけてくださいました!東京からお越しということで、ちょっと私いま鳥肌が立ってるんですけれども、コーネルさんが昨日、秋山兄弟生誕地に訪ねたときにたまたまお会いになったそうですね。

コーネル)はい、そうです。

佐伯)どんなお話をされたんですか?

コーネル)いや、一言しかなかったけど、いや私もびっくりで驚きましたが、(好古)本人の曾孫さんに会うのは、本当にこれから自慢になります。

佐伯)そうですよね。日露戦争、日本海海戦、秋山真之について専門に調べていらっしゃるコーネルさんと…偶然でしょう?

コーネル)はい。

佐伯)偶然、秋山好古さんの曾孫の方が生誕地で巡り合って、今日もここでまた再びということで、何か好古さん、それから真之さんが結んでくださったご縁かな、なんて思いながらここからお話を進めていこうと思いますけれども。先ほど稲葉先生、松山で捕虜の皆さんはとても手厚くもてなされたというか厚遇を受けたということでしたけれども、このミュージアムにもその様子が展示としていくつか残されていますよね。ご覧になりました?

稲葉)ええ、ですから捕虜はですね、捕虜収容所というところに入れられたわけですね。ところが、捕虜も狭いところに長いことを入れられていくと非常につらいですよね。ですので、松山の捕虜収容所ではですね、順番に捕虜たちをですね、散歩させたり、そういうことをやったわけです。一度は泳ぎにも連れてってますから。そういう意味で、本当に松山に来た捕虜たちはラッキーだったと思いますね。

佐伯)ミュージアムの展示では、おっしゃったように、遠足に出かけたときの様子などが、写真ですかね、残っているという。ちょっと一般的に「捕虜」という言葉から想像する生活とは全く異なる生活だったということですよね。

稲葉)そうです。プラス、実はロシア人と日本人ですと食生活が全然違うんですね。彼らはやはり肉をよく食べるんです。それから当然のことながらパンを食べるわけですよね。ところが、当時の、今から120年以上前に、そんなロシア風のパンなんかがここにあるはずがないわけですよね。

佐伯)そうですよね(笑)

稲葉)しかし彼らはパンが食べたくて食べたくて仕方がない。いやどうしたらいいんだ、ということで、なんとパンを焼く窯から作り始めたわけですね。

佐伯)釜から!

稲葉)ええ、パンを焼く窯を作って、そこでパンを焼いた。ですから松山の捕虜収容所のすごいところは、その捕虜たちにパンを焼く窯を作らせてあげたわけですよね。それで材料も集めてあげて、それでパンを焼かして、それを捕虜たちに配らせた。すごい、何て言いますか、これも立派な態度を松山の方たちが取ってくれたおかげで、ロシア人たちはパンを毎日食べることができたわけですね。ですから、ロシア人が毎日ご飯を食べるっていうのもやはりちょっと…なんですか、彼らはパンの方がいいと。それを実現させてあげたのは全て、これも松山の捕虜収容所の素晴らしい対応だったと私は考えております。

佐伯)そうですか。パン、それからお肉も調達して、それからお酒なんかも日本酒ではないでしょうしね。

稲葉)ええ、ですから、これは松山の雲祥寺さんでちょっと聞いた話なんですけれども、雲祥寺さんにはポーランド人の捕虜がたくさん収容されていたんですが、その捕虜の人たちがですね、お酒が飲みたくて飲みたくて仕方がなかったわけです。で、何を飲みたいかって言ったら彼らはですね、強いお酒が、ウォッカとかですね、コニャックとか、強いお酒が飲みたかったんです。それで当時のですね、雲祥寺の小坊主だった、後でご住職になられた小さなお子さんに「コニャックを買ってきてくれ」と言ったわけですね。

佐伯)ええ。

稲葉)小坊主さんは困りましたね、松山にコニャックなんか売ってるはずがないじゃないですか、当時。で、何を買ったか?これが笑い話だったんですね。いやあ、なんと小坊主さんは困って困って、多くのコンニャクを買ってきたんですね!

佐伯)コニャックとコンニャク!

稲葉)これはもう、もらったポーランド人もショックが大きかったんですよね。

佐伯)確かに(笑)

稲葉)お酒を買ってきてくれって言ったのに、コンニャクを買ってきてもらっても(笑)

佐伯)しかもコンニャクなんて、ポーランド人はご存知なかったでしょうからね。

稲葉)ええ、多分気持ち悪がって食べられなかったんじゃないですかね(笑)

佐伯)実はこのエピソードは、南海放送のラジオドラマが原作で映画になった「ソローキンの見た桜」という作品の中でも登場するエピソードなんですよね。でも、そうした積み重ねの交流で、やっぱり「松山の人たちはちゃんと扱ってくれる」っていうのが伝わっていたんでしょう、投降するときに「松山」と言いながら投降をしたロシア兵も数多くいたと聞いています。

稲葉)そうですよね、コーネル先生。

佐伯)捕虜になるなら、松山の捕虜収容所にというのがあったんですね?

コーネル)はい。実は戦争中は7万9000人がロシア軍の捕虜になった、兵隊が捕虜になって、その中で4000人が松山に運ばれていました。そして松山は最初の収容所になったので、それだけではなくて状況がいいというところなので、だんだん有名になったっていう。

稲葉)捕虜になっても松山に行けば厚遇してもらえると、こういうことがわかればね、戦わずに捕虜になった方がいいと考えた兵隊さんも多くいたんじゃないですかね。

佐伯)そうした評判が広がるにつれ、世界の人々が「日本は一流国である」と、見方も変わっていったということでしょうか?

稲葉)はい、ですから、本当に日本の評価が、この捕虜の対応ということを通して世界中に伝わったっていうのは、本当に日本にとって良かったんじゃないかなというふうに私は考えております。

 


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Selected By Haruhiko Ohno


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