今週、坂の上に訪ねて来て下さったのは、今治市にある玉川近代美術館(徳生記念館)の学芸員・藤原敏子さん。玉川町出身の実業家・徳生忠常(とくせいただつね)について、ご紹介いただきました。実業家として成功をおさめた徳生忠常は、その財を故郷のためにも投じ、今も様々な形で市民の暮らしを豊かにしてくれています。「徳生さん」と呼ぶ藤原さんの語り口からは、郷土の偉人に対する心からの敬意が溢れていました。そんな彼の足跡を「教師になる夢」「財ハ社会ニ還元スル」「芸術で豊かな心を育てたい」という3つのキーワードで紐解きました。
佐伯)徳生さんは「いつか親に恩返し、それから故郷にも」っていうお話をお聞きしましたけれども、ずっとその思いを抱いてらしたんですかね。
藤原)そうですね。本当に故郷を離れた時からずっと、故郷と両親への感謝の思い、そしていつか恩返しをしたいっていう思いを抱いていたんですよね。で、小学校の教員時代の徳生さんを知る人の言葉によると、「誰よりも熱心で大人しい青年だった」という言葉も残っておりまして…
佐伯)大人しかったんだ。
藤原)そうなんです。大人しいけれども、心にはすごく熱い秘めたものを持っていた人だったから、耐え忍んで大きな事業も発展できたんじゃないかなと思うんですけれども。両親の反対を押し切って上京していただけにですね、故郷に恩返ししたいという思いは非常に強かったようです。昭和53年頃からですね、徳生さんは故郷への奉仕を始めるんですけれども、故郷の九和村の九和小学校の建築であったりとか、その九和小学校の屋内運動場の建築、住民の方のですね、町民の方の健康を考えてですね、玉川町の保健センターの建築など、次々に建設資金を提供して多額の寄付もしたんですね。
佐伯)そうだったんですね。そして、総合公園の建設計画にも関わって…
藤原)そうですね、玉川の総合公園の建設計画においてはですね、千葉県に持っていた土地を玉川町に寄附して、町はそれを売却して建設資金としたんですね。この時にですね、感謝の思いを込めて「公園に徳生さんの銅像を立てたい」っていうふうに玉川町が申し出たんですけれども、「政治家ならともかく、商人がそんなことをしたら末代まで笑い者だ。子孫までその謗りは免れない。私が死んでも銅像は残る。それは絶対にいかん。二度と口に出さないで欲しい。」というふうに、強く言ったそうなんです。
佐伯)本当にもう頭が下がりますね、こういったお人柄ね。
藤原)そうなんです、本当にこういった人柄の方だったんだなっていうのがよくわかるエピソードだったんですけれども、それでも何としてでも感謝の意を表したい町が半ば強引に、運動場の広場をですね、「徳生広場」と呼ぶことに決めまして。玉川町もだいぶ粘り強く交渉したそうなんです(笑)。
佐伯)これについては?(笑)
藤原)はい、そうですね、徳生さんも「そこまで気を遣っていただいてありがとうございます」というふうにおっしゃって、頭を下げられたそうなんですね。
佐伯)呼び名にお名前が入ることは認めてもらえたということで。
藤原)許してくださったんですけれども、その「徳生広場」と彫っている記念碑が入り口のところにありまして、その裏側にですね、徳生さんの心情が彫られているんです。その心情というのが「商イハオ客サント共ニ栄エ、利運ノ財ハ社会ニ還元スル」というものでした。
佐伯)ここで「財ハ社会ニ還元スル」という言葉が出てくるわけなんですね。だけど本当に大きなことを成し遂げた方というのは古今東西、やはり何かに還元するんだ、 独り占めしないっていう…だから大きなことが成し遂げられるんですかね。
藤原)そうですね~、もう本当に私たちから見ると頭が下がる思いというか、ありがとうございますっていう感じなんですけれども。
佐伯)この言葉が、玉川町の徳生広場の記念碑に残っているんですね。
[ Playlist ]
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Selected By Haruhiko Ohno