今週、坂の上に訪ねて来て下さったのは、井関農機株式会社執行役員開発製造本部副本部長の高橋一真さん。愛媛を代表する企業である井関農機の創業者、井関邦三郎の足跡について詳しくお話を伺いました。邦三郎の出身地である宇和島市三間町の「畦地梅太郎記念美術館・井関邦三郎記念館」が開館20周年ということで、ちょうど二人の功績を顕彰する記念特別展も開かれています。農家の息子として生まれながら商いへと身を転じた井関邦三郎。その根底に流れる思いを「農家を過酷な労働から解放したい」「田植え機の代名詞・さなえ」「ふるさとを思う」という3つのキーワードで掘り下げました。


佐伯)では、3つ目のキーワード「ふるさとを思う」について伺っていきます。邦三郎氏は愛媛の発展にも貢献されたようですね。
高橋)はい、昭和の23年には松山商工会議所の会頭、また県の工業倶楽部ですとか県経営者協会、日本農機具工業振興会などの会長、また済美学園の理事長ですとか、南海放送の取締役、伊予鉄道の取締役など六十有余の団体また企業などの要職についていたという風に聞いてます。

佐伯)今のご紹介にありましたように、南海放送の取締役も務められたということで、実は南海放送50年史に邦三郎氏が登場しています。そのシーンは、開局はいつにするのか、鉄塔の建設には大きな資金を必要とするだけに慎重に見極める必要がある、という難しい場面の中なんですが、役員の方たちが議論しているシーンが記録されています。ちょっと抜粋してご紹介します。「1956年、昭和31年10月8日の取締役会では、井関農機社長・井関邦三郎の積極論がリードした。南海放送の事業は愛媛の文化向上のために始めたもので、利益を目的としていない。テレビ事業にもその基本姿勢を貫くべきで、この機会を捉えて早く開局準備に着手すべきだと強調した。一代で農機具会社を築き上げた人物の先見力であった。この取締役会の決定を受けて、11月30日、地上77.5メートルのテレビ塔をNHKと共同で建設する計画が結ばれた。南海放送テレビの開局まで2年余りを残しての決断である。」いうことで、南海放送はね、そもそもラジオ局として開局していたんですが、テレビの放送を始めるのにどうしていくかという場面で大変大きな力を発揮されたというのがお分かりいただけたのではないかと思います。そして、高橋さん、済美高校の理事長時代、こちらもやはり大きな力、尽力なさったようですね。

高橋)はい、済美高校の理事長の時代には、戦後のベビーブームの世代がちょうど高校の進学を迎える時期、施設の拡充に非常に尽力された。今の済美高校の発展は井関邦三郎先生抜きでは語れないという風にも語り継いでもらっているところです。

佐伯)ですから経営者としてだけではなく教育面においても大きな功績を残していらっしゃるんですね。

高橋)はい、(邦三郎は)実はみどり丸という船の遭難事故にあっておるんですね。そこから、悔いのない人生を送ることを決意したという風に言われてます。昭和10年の7月2日、大阪商船のみどり丸が沈没し、乗船していた邦三郎は海に飛び込み、大量の重油を飲み込みながらも九死に一生をえた。そして邦三郎は2度目の人生、悔いを残さない人生にしたいと決意をしたそうです。そのとき入院中に体質が変化したのか、そのあと太り始め、長年の胃の痛みもなくなり 健康に恵まれた人生を送るようになったようです。その翌年の昭和11年、邦三郎は37歳で井関農機株式会社を設立したということです。

佐伯)じゃあ、人生の一つの転機となる出来事だったんですね。

   

 


[ Playlist ]
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Nicole Willis & The Soul Investigators – I’ll Just Sit And Daydream
Nicola Conte – Several Shades Of Dawn
Donavon Frankenreiter – Shine

Selected By Haruhiko Ohno


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