今週、坂の上に訪ねて来て下さったのは、砥部焼観光センター炎の里代表取締役の泉本明英さん。愛媛が誇る伝統工芸品のひとつ砥部焼の今昔物語と題してお話を伺いました。キーワードは「砥部焼のルーツ」「砥部分校の存続」「世界に羽ばたく砥部焼」の3つ。聞き手は、寺尾英子アナウンサーです。
寺尾)長い歴史のある砥部の砥石ですけれども、明治以降この砥石、砥部焼きはどうなって行ったんでしょうか?
泉本)えっと明治期に入ると、けっこう窯の軒数もぼちぼち増えてですね、シカゴの万国博覧会で、砥部の淡黄磁っていうのが一等賞になったというのがございます。
寺尾)砥部焼が博覧会で一等賞!すごい。こうなると世界にその名が知られるようになってきますよね。
泉本)そうですよね。やっぱり当時の方も海外に向けてっていうのがあったんだと思うんで、そういう努力をされ、おそらくその淡黄磁っていうのが象牙とかその辺に似てる雰囲気があって、文字が言うように淡い黄色の磁器ですんで、けっこう向こうの方で受けいれられたというのがあると思います。だから普通の壺よりは単価も結構高くて、皆さん好んで向こうの方が使われたと。そのデザインっていうのがですね、淡黄磁っていうのが非常にシンプルで余計な飾りのない器に仕上げないと面白くない生地なので、だからそういうデザインになっていたと。それ ヨーロッパの方に非常に珍重されたというところだと思います。
寺尾)ということは、輸出も増えていったんですか?
泉本)そうですよね。磁器をある程度量産するということで、当時金属加工もなければプラスチックもない、そういう時代でしたんでアジア圏に輸出されてましたね。結構これ大量に輸出されて、砥部の窯も結構大きな窯元さんに成長していったという時期だと思います。
寺尾)そのアジア圏ですとか輸出の時は、砥部焼っていうのは何か呼び名があったんですか?
泉本)そうですよね、あの「伊予ボール」という…
寺尾)「伊予ボール」。今の食器といいますか調理で使うボール、のボールですよね。
泉本)そうです。これ台湾の方から上海、シンガポールまで船が出てましてですね、まずは沖縄の方に行っておろしてですね、それから台湾、上海へ行くという形で。梅山窯さんの史料から見るとですね、台湾に砥部焼の梅山窯の販売所ってのが125か所あったという…
寺尾)え~!
泉本)おそらくこれは国策じゃないかなと思うんですけど、砥部の窯と、あと美濃と、そこで大量に台湾に食器が送られたという風になってますね。おそらくだから台湾も明治以降、日本のテコ入れによって近代化していくんですけど、その食卓の近代化に対して砥部は貢献して行ったんだろうなと思います。
[ Playlist ]
Ophelia Swing Band – Knock Knock
Kings of Convenience – Mrs. Cold
Everything But The Girl – Rollercoaster
Jose Gonzalez – Heartbeats
Selected By Haruhiko Ohno