今週、坂の上に訪ねて来て下さったのは、奥道後壱湯の守の支配人・河上克之さん。今春、壱湯の守には明治生まれの政治家・の銅像が設置されました。もともとは奥道後のホテル目の前にある山の頂に鎮座していた銅像でしたが、ロープウェイ廃止に伴って山頂へのアクセスが出来なくなる中、勝田家の希望と「郷土の偉人の顕彰は観光業に携わる者の使命」との考えから、このたびの移設が実現したとか。勝田主計は松山中学・第一高等学校を経て東京帝国大学に進み、常盤会宿舎では子規らと生活を共にし、野球や俳句にも親しみました。大蔵省に入省後は愛媛県出身者として初の大臣となり活躍する一方で、東京愛媛県人会を創設し郷党の指導育成にも尽力。そんな勝田主計について、「官僚から政治家へ」「詠んだ俳句の数3万2千」「勝田の思いを現代に」をキーワードに寺尾英子アナウンサーが話を聞きました。


河上)大正3年、貴族院議員に選ばれまして、朝鮮銀行の総裁に就任をします。この時も一度はまあ、「私がそういったものは…」ということで辞退をするんですけど、ちょうどその時の朝鮮総督が、後の寺内正毅総理だったんですね。で、「お前がやっぱりやってくれないと困る」というようなことで、引き受けたというようなことでございます。その後、寺内内閣が発足しまして大蔵次官ということで、官僚のトップに任命をされます。この時も一度は辞退をしましたが、寺内総理にですね、「一度大蔵大臣は私が兼務するけど、適当な時期に君に譲るよ」というようなことで言われまして、「分かりました」と。で、大正5年に大蔵大臣に就任をします。この時はいよいよ決意を固めて、「粉骨国家のために尽くすの決意を示した」と書かれておりましたけれども、まあいよいよやろうということになったと書いております。ただ名誉名声のためではなかったようなところがあって、自叙伝の中では「大臣になったことは、自分には左程うれしく感じなかった」というようなことも書いております。主計自身その時が47歳、私よりも若い!

寺尾)まあ!

河上)時なんですけど(笑)、初めての“明治生まれの国務大臣”ということなんですね。

寺尾)じゃあ、当時でもいちばん若い大臣でいらしたんですね。

河上)当時、年功序列の日本社会では「貫禄がない」「若すぎる」と揶揄されたところもあって、ある人には「大臣とはのそのそとしてはっきり答えず、官僚に任せて仕事はしないことだ」と、そんな助言を頂いたと。

寺尾)え~。

河上)というようなところで、それに対してやっぱり「この国はどうなるんだろう」と。「自分がやる限りには一生懸命仕事をしよう」というようなことで、大蔵大臣に就任をされたということです。内閣は変わって再度、大正13年にも大蔵大臣を務められて、ちょうどその前の年にですね、関東大震災も起こって、その復興に国家の財政基盤を整える役割をされたということです。また時代が変わって、その後文部大臣などもされまして、大蔵官僚出身で3度も大臣に就任されて、とても優秀な人材だったと思われます。

寺尾)本当に大変な時代の中で、国の中枢で活躍してらっしゃったんだなと思いますし、またあの銅像を見ましても本当に凛々しいお顔をしていらっしゃって…

河上)こちらも見ていると背筋が伸びるようなですね。

寺尾)ちょっとお髭がまたね、なんと言うんでしょうかチャームポイントと言いましょうか、ご立派なお髭も持っていらっしゃるんですけど、愛媛県人初の大蔵大臣ということで故郷も湧いたのではないかと思うんですが。

河上)そうですね、その当時の事っていうのは私も存じてないんですけれども、その後やっぱり勝田主計は、愛媛県人会ということで郷土の後輩たちを招いてというか、そこでやっぱりこう…なんて言うんですかね、世話をして導いたというようなところで、やっぱり育成という意味にも力を注がれたというような感じです。

 

 


[ Playlist ]
Sharon Jones & The Dap-Kings – How Long Do I Have To Wait For You
The Radio Dept. – What You Sell
Phoenix – Summer Days
Maria Muldaur – Midnight At The Oasis
Neil Young – One Of These Days

Selected By Haruhiko Ohno


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