今週、坂の上に訪ねて来て下さったのは、前砥部町長で工藤省治記念館館主の中村剛志さん。今年4月に開館した工藤省治記念館は、なんと中村さんが以前住んでいた自宅の1階を改装して作られたものなんです。愛媛を代表する伝統工芸である砥部焼、といえば白磁に藍色の唐草模様を思い浮かべる方も多いでしょう。その唐草模様を取り入れたのが工藤省治さん!もともと画家志望だったという工藤さんは、昭和30年代に縁もゆかりもない砥部にやってきて、梅山窯の門を叩きます。同時期に陶芸の大家を父を持つ澤田犉、地元砥部出身の岩橋節夫が梅山窯に所属し、砥部焼を盛り立てていくことになるのです。そんな工藤さんについて「梅山窯三羽烏」「唐草模様誕生の裏側」「砥部焼の未来」をキーワードに掘り下げて頂きました。


佐伯)先ほどのお話で、梅山窯三羽烏がしのぎを削っている…

中村)切磋琢磨していたんですよね。

佐伯)その頃の状況っていうのをお伺いしましたけれども、やっぱり工藤さんがライバル視、特にしていたっていうのはエリートの…

中村)澤田さんですよね。

佐伯)っていうことですか。これは、どのあたりが火をつけたんですかね?

中村)これはね、工藤さん、沢田さん、それで私と木下さんって焼き物の販売をやってる方がいるんですが、その4人でよく飲んでたんですよ。その時に聞いた話なんですよね。

佐伯)実際に!

中村)実際に。工藤さんが「澤田、お前は給料もろて、賞与もたくさんもろうてよかったのお」という言い方で言うんですよね。飲んでですよ。それで工藤さんは「わしらはタバコ銭しかくれなんだ」と。「うどんの一杯も食えなんだ」と。それは面白く言うんですよね。

佐伯)はいはい(笑)

中村)実際はそうじゃなかったと思いますよ。それで「わしはもう大将に言うていったんや」と。「大将、澤田と私の差はどこにあるんですか」と。そう言ったら「工藤もようやっとるよ。」と褒めてくれて、「お前はのお、2、3年うちにはヨーロッパに行かしてやろうと思とんじゃ。」ということを大将が言ってくれたと。という話を、工藤さんが飲んだ席でですね、面白く話すんですよ、僕に。「そんなことあったんですか、それで本当に行かしてくれたんですか」言うたら、「ほうよ、2年後に行かしてくれた」言うて。

佐伯)へ~、本当だったんですね!口から出まかせじゃなくて。

中村)出まかせじゃない。大将はそこら、工藤さんの実績も力もやっぱり認めとったんだなあと思いますね。

佐伯)しかも、その時代にもう世界を見ていた。

中村)そうですね。

佐伯)ってことですよね。

中村)それとおそらくね、ヨーロッパはペルシャへ行ったんですけどね、これはまあ工藤さんの希望が入ってて、やっぱりそこに自分の言う唐草に似たデザインがあるというのはおそらく知っていたんじゃないかなと僕は思いますけどね。

佐伯)ペルシャって…いわゆるイランのあたりですかね。

中村)はい、それで向こうへ実際に行かしてもらって、そこで勉強して帰って、材料を持って帰って作ったのが唐草なんですよ。

佐伯)は~。ペルシャ博物館で勉強というか視察というか…

中村)視察です、はい。

佐伯)で、生み出したのが…

中村)唐草です。

佐伯)じゃ、これは本当に行かせた甲斐があったと。

中村)そうですね。

佐伯)と、大将も思われたでしょうね。

中村)それとね、大将が凄かったのは、その唐草、ピンとたぶん来たと思うんですよ。「これは売れる!」と思ったでしょうね。そしたら大将は、工藤さんが発案したそのデザインを、唐草の模様を、自分ところだけで囲うんでなくって…

佐伯)なくて?

中村)砥部焼の窯元は小さい窯元がたくさんあるんですけど、そこへみんなにおろしたんですよ。「描いていいよ」ということで。

佐伯)え~!

中村)考えられないでしょ。

佐伯)普通、著作権じゃないけど、そのデザインの商標を取るとかして、自分の利益にしようと考えると思うんですが、そうしなかった!

中村)しなかった。それを工藤さんから直接窯元にも教えるし、梅山窯の職人さんからも教えるしして、「唐草は自由に使ってください」ということで。それで唐草が砥部焼の代表的なものになったということですね。

佐伯)それは梅山窯の大将もそうだし、工藤さんも、自分ひとりの利益じゃなくて砥部焼全体の利益を考えた。

中村)そうですね。

 

 


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Selected By Haruhiko Ohno


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