今週は、坂の上の雲ミュージアム特設ブースからの生放送!松山海上保安部交通課長の菅原大さんと安全対策係の堀内美亜さんをゲストに、今年、点灯150周年を迎える松山市の釣島灯台をテーマにお送りしました。明治6年に点灯した釣島灯台は、「日本の灯台の父」といわれるイギリス人技師・ブラントンが手掛けた、日本で9番目に古い灯台です。じつは坂の上の雲ミュージアムには、この釣島灯台と官舎の模型が展示されています。灯台建設当時のイギリス人と島民の交流は、現代まで意外な形でつながる絆がありました。
佐伯)先ほどのパートで釣島灯台が通航のためにいかに重要なものであるかというのを教えていただいたんですが、その釣島灯台と官舎の建物ですよね、こちら、どのような点が貴重なんでしょうか?
菅原)日本近代化の始まりでございます明治期から各地で洋風の建築物が徐々に建てられておりますけども、これらはですね、日本の大工が模して建てた、いわゆる「擬洋風建築物」でございまして、きょうバラ展がやってございます萬翠荘もカテゴリーとしてはその一つと言えるんですけども、釣島灯台とその官舎はそうではなくて、イギリス人のブラントンを含む外国人 技師が直接建設しました純粋な「洋式建築物」でございまして、郷土史においては貴重な文化遺産であることがわかると思います。この灯台の官舎はですね、保存の重要性を踏まえて、 松山市からの要請によって平成7年に海上保安庁の国からですね、松山市に譲渡されまして、3年と3億2000万円の経費をかけて保存事業がなされました。この灯台と官舎が現地において当初の姿を保っているのは、日本で釣島灯台とその官舎ただ一つだけになります。
佐伯)そうなんですか!日本でここだけ。
菅原)はい。ここ坂の上の雲ミュージアムに灯台と官舎の模型が展示されている理由が、その文化的遺産価値からだとわかると思います。
佐伯)へ~。灯台と官舎が今も当時の姿のままに存在している、さらに灯台が今も現役で点灯しているっていうことですよね。先ほど釣島灯台は日本で9番目に古い灯台ということを教えていただきましたが、今もその当時のままの姿で残していられるっていうのはどうしてなんですか?
菅原)はい、国とか松山市が保存に力を注いでいるとともに、灯台と官舎には石材が使用されている点が挙げられます。文献を読みますと、石材である花崗岩は、山口県の倉橋島や 浮島、同じ山口県の徳山などから釣島まで海上運搬されまして、島の山道に板を敷いて丸太とロクロを使用して人力で運ばれました。そのほか木材は、現地のヒノキや郡中・長浜などから運搬した木材を使用し、建築されています。ブラントン指揮のもと連日 300人の人々がその作業に従事したと言われています。灯台の各種機器や灯台と官舎の暖炉や窓ガラスなどは輸入されています。なお官舎には外国人が居住するためのベッドも備えられ、その状況は ここに展示されております模型にも敢えて再現されたと館長から伺っております。
佐伯)そうでしたか!この官舎は外国人が住めるように建てられたものだったんですね。
菅原)はい、設置当時の灯台勤務職員も、初代の灯台長のハレスのほかイギリス人でありました。明治4年に建設が始まりまして明治6年に竣工していますから、時代背景としては廃藩置県で松山藩が松山県、その後に石鎚県、愛媛県と改称された頃になります。久米騒動が発生していた時期にも重なりまして、秋山兄弟、正岡子規も松山で幼少期を過ごしていた頃になります。
佐伯)ああ、はい。
菅原)当時の釣島には島民が7世帯であったところに、イギリス人の指導のもと、近郷から約300人が雇われ、釣島に出店や遊郭まで出来て空前の賑わいとなったとの記録があるので、このように大きな工事となった釣島灯台の建設は当然、松山の多くの人が知っていただろうと思います。また偶然にも、灯台が点灯した明治6年は、現在の石崎汽船となる三津浜の石崎平八郎が汽船「天貴丸」により回船業を開始、つまり今で言う貨客船の運行を始めた時期とも重なっていたことも興味深いです。
佐伯)じゃあその石崎汽船の前身で、汽船「天貴丸」も、この釣島の灯台の灯りを頼りに行き来していたっていうことが考えられるんですね。
菅原)そうだったと思います。
佐伯)それにしてもですね、菅原さん、7世帯しか住んでなかった小さな島に300人も毎日作業のために人がいて…
菅原)住み込んでたんだと思います、当時はですね。
佐伯)はいはい、めちゃくちゃ地域おこしですよね(笑)。しかも遊郭なども出来てたんですか。
菅原)はい、記録があります。
佐伯)いや~、すごい。でもそれだけたくさんの方が島に入ってきて居住されるようになって、水とか食料とかどうされてたんでしょうか?
菅原)建設当時は釣島には水が少なくてですね、島民はわずかな溜水を飲料水としていましたけども、工事が始まると、興居島の当時の鷲ヶ巣という場所に井戸を掘りまして、その井戸水を船で運搬したとの記録があり、その井戸は今も興居島にその名残があるようです。
佐伯)そうですか。
菅原)またイギリス人は定期的に食料を神戸から調達し、三津浜を経由して釣島へ運んでいますけど、食料が尽きた場合はビワなどの果物のみを食べていたとのことです。
佐伯)そうか、今みたいに物流がしっかりしてるわけじゃないですもんね。ともあれ、松山では釣島が先だって西洋文化の風が入ってきたということになりますよね。で、そんな小さな島でしょ、当時の人たちは突然イギリスの人たちが上陸してきたっていうことにはどんな反応だったんでしょうね?
菅原) 島に上陸したイギリス人を見た最初の島民は事前にそれを知らされていなかったようで、「人取りが来た」と思い、女性や子供は山中に逃げ込みまして、地域の代表は刀を携えて対峙したと言われています。
佐伯)いや、今でこそちょっと笑い話的になるかもしれませんが、当時の人にとってはそれはびっくりですよね。
菅原)はい、ブラントンはですね 義理人情に厚い方であったとの記録がありまして、島民から受け入れられまして、先ほど対峙したとする島民の小林年松さんの協力も得て灯台建築に至るのですけども、ブラントンは恩返しに小林年松さんのご子息の面倒をみたいという話もあったそうです。
佐伯)へ~。
菅原)じつはこの小林年松さんの末裔であります小林元翁さんっていう方がいるんですけど、現在も無人となりました釣島灯台の監視を頂いておりまして…
佐伯)え、そうなんですか!
菅原)はい。松山海上保安部では大変お世話になっている方でございます。名誉灯台長にも指名させて頂いております。
佐伯)うわ~。
菅原)また初代灯台長のハレスも人情家でございまして、灯台備え付けの医薬品を島の人々に惜しげもなく与えたとの記録があります。このような経緯もあって、釣島の人々は今も、灯台がなくてはならないシンボルとなっていると話します。
佐伯)これは素晴らしい、素敵なお話ですね。設置された当時の明治の初め頃の島民とイギリス人との交流で、今もその島民の方の末裔の方が、この灯台を守るのに力を貸してくださっている…
菅原)その通りです、お世話になっております。
佐伯)そんなエピソードのある灯台なんですね。
[ Playlist ]
The Fifth Avenue Band – One Way Or The Other
Oasis – Songbird
Elizabeth Shepherd – Numbers
Phoenix – Holdin’ On Together
Selected By Haruhiko Ohno