今週、坂の上に訪ねて来て下さったのは、ジャーナリストで愛媛経済レポート客員論説委員も務める宮住冨士夫さん。宇和島市吉田町出身の偉人・芝染太郎について話を聞きました。明治初頭、吉田藩士であった父のもとに生まれた染太郎は、抜群の英語力を生かして東京英和学校(現在の青山学院大学)を卒業後、ハワイに移住。日系新聞「ハワイ新報」で活躍し、後に社長を務めます。帰国後はJapan Timesの役員となり、ここでも社長を務めた上、あの戦艦・三笠の保存運動の中心となって尽力したのです。その足跡を「たぐいまれな英語力」「三笠を海に沈める処分」「日本とアメリカをつなぐ架け橋」というキーワードで辿りました。


佐伯)後世の私たちが考えてもですね、「あの三笠を廃船にしてしまっていいのか」という気持ちがあるんですが、当時は?

宮住)実は船を残すという風な文化がないんですよね。

佐伯)へ~。

宮住)ロンドンに行かれた方にはテムズ川で軍艦が浮かんでますし、シドニーにもあると。サンクトペテルブルグにもオーロラ号というのが係留してます。ところが日本には咸臨丸とかあんなのもないわけですね。

佐伯)はい。

宮住)やっと戦後になって、宗谷とか砕氷艦ふじなんかを残すようになりましたけれども。そういうことで、船っていうのはもう保存するという感覚自体が皆さん無かったみたいです。

佐伯)そうなんですか。そんな中でスクラップになってしまうのかというところを迎えるわけですね。

宮住)それで一応政府の方針としては、三笠の砲台とか装備を全部外して太平洋の沖に持って行って、それに砲撃をしてですね、弾がどんだけ当たったら穴が開くかとか、そういうテストにしたかったらしいですね。

佐伯)はい。

宮住)標的艦と言うんですけれども。ところがそう思っている最中にですね、あの関東大震災が起きまして、船が津波で岸壁にぶつかって大破すると。で、沈没こそしてないけど、浸水して尻もちしてしまうということで、遠くまで運べないと。

佐伯)じゃ、その標的艦にすることができなくなくなった。

宮住)それで応急処置をして、横須賀の軍港からちょっと離れた白浜海岸というところに引っ張っていって、そこで固定をしたと。

佐伯)そうなんですか。

宮住)だから、禍を転じて福と為したのは三笠でしょうね。

佐伯)でもその三笠を、当時船を保存するという文化もなかった中、芝染太郎はどのようにしてこれを保存しようという運動に動いたんですか?

宮住)これはあの戦艦長門の艦長あたりの方がですね、「あの三笠を海に沈めるのはもったいない」ということで芝染太郎に相談に行くわけです。で、芝染太郎が船に登ってみて、「ああ、これがあの東郷平八郎が乗った船か」と思って感激するわけですね。それで彼は英語の新聞Japan Times を持ってましたから、そこでキャンペーンをするし、それから街頭に立って、なんかメガホンでやったらしいです、「三笠を守れ!」って。

佐伯)ええ!

宮住)でも誰も相手にしてくれなかったと。

佐伯)そうなんですか。

宮住)それで彼は、本当は日本人の力で保存するのが一番いいんだけれども、外交官に話をつけてですね、三笠の保存運動に協力してくれという風に頼み込んでですね、了解を得て、国際的な世論にしていったと。

佐伯)これはまさに芝染太郎ならではの方法ですよね。

宮住)そうです、はい。海外では敵の国であろうがなんだろうが見事な手柄をやった人達、あるいは船には「Good job!」なんですね、でかしたということで。それで一肌も二肌も脱いでくれた。しかも、その標的艦にするあてが外れたということでそういう陳情があるということでですね、残ることになったわけです。

佐伯)その海外とのパイプを活かして三笠の保存につなげたという、これはもう本当に他の人には出来ない功績ですね。

宮住)そうですね、彼じゃなかったらできなかったと思いますね

 


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Selected By Haruhiko Ohno


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