今週は、「坂の上の雲ミュージアム」からの生放送!来年1月15日開催の「秋山好古祭2023」に先がけて、「教育者としての秋山好古」をテーマに、坂の上の雲ミュージアムの石丸耕一館長にお話を伺いました。軍人としてのイメージが強い好古ですが、彼が職業として最初に選んだのは教師だったんです。小学校教員から陸軍へ、そして晩年は北予中学校長を務めた好古について、「無料で学べる学校へ」「陸軍の教育者として」「未来を担う子どもたちの教育者として」という3つのキーワードで掘り下げました。番組後半は、好古祭で上演される「拝啓・好古先生!~茶屋又にて~」の脚本・演出を手掛ける演劇ネットワークOffice59主宰の渡部和也さんも加わり、賑やかな回となりました。


佐伯)続いて二つ目のキーワード「陸軍の指導者として」。こちらについて伺っていきましょう。軍人として最前線で戦うだけではなくて、後進の指導にもあたっていたということなんですね。

石丸)陸軍の指導者としての好古の経歴を簡単に言いますと、陸軍の乗馬学校長、これが制度が変わって陸軍騎兵実施学校長になります。さらには陸軍の獣医学校長を務めています。で、最終的には陸軍の教育総監に就任しています。この教育総監というのは、陸軍の最高幹部の三つの役職のうちの一つなんですね。

佐伯)そうですか。フランスに行ってフランス騎兵の基礎からずっと学んできたから、この乗馬学校とか騎兵実施学校っていうのは分かるんですけど、獣医学校長までやってるんですね。さらに最高幹部の一つ、教育総監にも就任しているという…エリート街道だなぁと思いますけど、どんな指導者だったんでしょうか?

石丸)まず好古が従軍した日清戦争ですね。この時は騎兵の第一大隊長として、日清戦争に従軍します。で、戦争後は陸軍の乗馬学校長になるんですけど、部下に対する教育の方針としては、「部下に研究を命ずるにあたっては、自分がまずしっかりと研究を遂げた上でなければならない」という風なことを言っていたと伝わっています。

佐伯)あ~、じゃあ部下に研究を命じるからには自分がちゃんと研究してなきゃいけないっていう、自分も律するという姿勢ですか。

石丸)そうですね。

佐伯)軍ですから、部下への指導っていうのはかなり厳しいものがあったんじゃないですか?

石丸)本当に厳しく当たったようなことですね。日清戦争の後は日露戦争になるんですけど、そこで生まれたての日本の騎兵というものを率いて、その当時世界最強と言われたロシアのコサック騎兵と対等に渡り合うことになります。この日露戦争後は、騎兵監となって騎兵教育の最高責任者として、日本騎兵の向上発展に力を尽くしていきますね。

佐伯)あのコサック騎兵と渡り合った、その日本騎兵を作り上げた好古さんだから、是非後進の指導にっていうのは納得できますよね。

石丸)で、日露戦争は日本は運良く勝利することができたわけなんですけど、日露戦争後の好古というのは、周りの人々が日露戦争で勝ったことによって慢心している、贅沢に耽ってる、そういう風なことについてすごく気にかけてですね、「軍人は戦時と平常時にかかわらず緊張感を持たなければならない」ということを力説してます。

佐伯)日露戦争は勝利に終わったけれども、その緊張感というのは忘れてはいけないんだと。大変ストイックな人物ですね。

石丸)そうですね。このストイックさというのが秋山真之なんかにも通じるものでもあるんですけど。好古はですね、当時の陸軍騎兵学校は年中無休で夏季休暇さえなかったんですけどね…

佐伯)ブラックですね、今時で言うと(笑)

石丸)今では本当ありえない世界かなという気がしますけど。この時に部下の人だったんですけど、騎兵監の好古にですね、「休暇をどうか設けてもらえないか」と言ってお願いしたんですけど、そうしたところ好古は「馬には夏季休暇ないじゃないか」

佐伯)いやいやいやいや(笑)、え~!

石丸)「馬に乗る学校に休暇がないのは当然じゃ」と。

佐伯)う~ん、なんでしょう、納得いくようないかないような…いや、いかないですよね(笑)

石丸)で、自分自身もですね、先ほどもありましたけど「任官以来今日まで一回も休暇は実施したことはない」と一蹴して、まあ休暇は無い!と…

佐伯)えーっと、とても立派なような気もしますけれども、上官にそう言われてしまうと、上下関係からいって部下は休ませてくれっていうのは言いにくくなりますよね…(苦笑)。そうですか、でもそこも一貫して、緊張感であったり真面目に仕事に取り組んでるっていう生真面目さっていうのが伺えますね。で、そうした軍人として教育にあたっているだけではなくて、松山から上京してきた学生達の面倒も見てたんですって?

石丸)松山のですね、旧藩主の久松家、これが育英組織として明治の時代に常盤会という団体を設置していたんですけど、常盤会ではですね、東京の本郷真砂町というところに寄宿舎を作ってですね、そこで旧松山藩の子弟たちに下宿させて、さらに生活のための給費金も支給していたんです。正岡子規もですね、その常盤会給費生になって、その恩恵に預かっていたんですね。

佐伯)奨学金みたいなイメージですね。

石丸)そうですね。で、この寄宿舎にはですね、生徒たちを指導する役割の監督、寄宿舎の監督というのが置かれてたんですけど、秋山好古は明治43年52歳の時に三代目の監督に就任します。松山の後輩達を育てるために一肌脱いだということなんですけど、これはですね、やっぱり幕末のところから引きずっているんですけど、松山藩とかその旧藩主に対する忠義や愛郷の気持ちですね。そして武士の家に生まれた者の責任というものを強く持っていたということに原因があるんじゃないかなという風に思います。

佐伯)先ほど、軍の部下に対しては「お休みもないよ」というような厳しい上官であったというお話がありましたけど、この学生たちに対しては、どんな風に接していたんですか?

石丸)常盤会の寄宿舎の監督に就任するにあたって、寄宿舎の学生に与えた訓示というものがいくつかあるんですけどね、そのうちの二つをご紹介します。一つ目です。「自ら進みて自ら学ぶの勇気なかるべからず」。

佐伯)これどういう意味ですか?

石丸)これはですね、単に教師から教えてもらうことを以てその全てとするんじゃなくて、自分で色々なことを自発的に学んでいく姿勢、こういったものが大事なんだという風なことです。

佐伯)これちょっと今聞いても刺さる!と言うか、「聞いてません」とか「マニュアルに出てません」って言うんじゃ駄目だよっていうことですよね。

石丸)そうですね。そして二つ目はですね、「微力を尽くして更新の発達を奨励する」という風なことなんですけど、これは自分自身、好古自身の想いなんです。秋山好古は世界に自分自身が行って色々なものを見聞きしてきた中で、日本と欧米諸国との差というものを強く感じたわけなんですね。これからの時代というのに日本が生き残っていくためには、他国と当然ながら競争して行かなくちゃならない。ただその競争していくということは一生の仕事としては本当に面白いことであると。そういう面白さといったものを自分の経験から後輩たちに伝えて、育成をしていくと。それが自分の使命であるという風な事を好古の思いとして持っていたわけなんですね。

佐伯)教育する者としての信念っていうものを感じますね。

石丸)で、学生にも自分自身にも、好古と言ったらこういう風な感じで厳しい人だったんですけど、寄宿舎を訪れた時は各部屋をトントンと訪ねて、「元気でやっとるか」みたいな感じで声をかけたりとかですね、そういう思いやりに溢れていたというところもあるわけなんですね。

佐伯)自分にももちろん厳しいし、志を高く持つように後進達も指導するけれども、そういう細やかな気配りというか優しさというのも持ち合わせていた人物なんですね。

 

 


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Selected By Haruhiko Ohno


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