今週、坂の上に訪ねて来て下さったのは、愛媛大学教育学部国語講座准教授の青木亮人さん。戦後、宇和島に疎開して人気小説「てんやわんや」を手掛けた作家・獅子文六についてお話を伺いました。獅子文六…もちろんペンネームですが、由来は九九の四四十六!?そこから「文豪」を文五ともじり、「文豪」より上という洒落で「文六」とした…なんて話も交えながら、人気作が生まれた背景などにもトークが広がりました。


佐伯)3つめのキーワード「てんやわんやを生み出した人々」。疎開することになり、愛媛の今の宇和島市ですね、岩松にやってきた獅子文六です。奥さんのご実家の方だったと?

青木)そうです。当時飛行機とかもないので、ひたすら電車でず~っと神戸の方まで殺人的な混雑の中行って、船で宇和島の方まで行って、宇和島からは当時、木炭バスって言うんですけど…

佐伯)木炭バス!?

青木)はい、木炭で動いてたバスがあって。

佐伯)へ~。

青木)戦時中から開発されて…もうガソリンがないので木炭でやるしかないってので、めちゃくちゃ燃費が悪くて。これちょっと余談になるんですけど、例えば松尾峠とか宇和島から岩松の方に行く難所とかでよく知られる、ああいう厳しい坂道とかだと、木炭バスって力がなくて止まっちゃうんですよ。

佐伯)どうするんですか?

青木)お客さんが降りて車掌さんと一緒に押す!

佐伯)え~。

青木)そういう木炭バスで、岩松までようやくたどり着いたらしいんです。

佐伯)それもまた衝撃だったと思うんですけれども(笑)。その岩松での暮らし。どんな町だったんですかね、その頃は。

青木)宇和島藩時代から岩松っていうのはものすごい栄えていたところで、これは例えば愛媛で言うと、今松野町って言われる松丸とかああいうところも、あと内子もそうなんですけれど、車と飛行機のない時代の一番の交通網っていうのはやっぱり川沿いなんですよね。だから岩松っていうのはあの辺りの山間部を含めての物資の集散地だったので、あそこの岩松の川に全部物資が集まって、そこから宇和島の方とか、あとは大阪とかあっちの方まで行くって言うので。あそこに物資が集まって、それを束ねる大庄屋がいて、それが小西家って言う庄屋さんだったんですよね。後に分家が一つ出るので、その東側に住んでた方を東小西って言って、本家の小西家を元小西って言うんですかね、本家の小西、東側にいた分家した小西って言うので。その小西家というのが本当かどうか…たぶん本当だと思うんですけど、岩松の方から今の愛南町の御荘とかあのあたりまで全部土地を持ってたらしくて。

佐伯)え~~~!

青木)その小西家の土地で愛南町の方まで行けたらしいと。

佐伯)すごい!

青木)だから普通の庄屋じゃなくて大庄屋中の大庄屋・東小西家に、獅子文六は別邸をお借りする形で逗留することになって、その東小西家の当主だった小西萬四郎という方が獅子文六を「東京の先生」っていう感じですごい立ててくれたらしいんですよ。そうすると、まあ町の代々の庄屋さんの名士である東小西家の当主が「東京の先生」って敬ってたら、やっぱり町の人々って皆、獅子文六をちゃんと、なんていうか敬いますよね。

佐伯)そうですよね!

青木)だから獅子文六はとにかく小西萬四郎さんにものすごい感謝してて、しかもそれは損得勘定抜きで本当に良い方だったらしくて、「東京の先生がいらっしゃった。で、逗留してくれてる」っていうので凄いもてなしてくれたらしいんですよ。それが彼がいうところの「自己中心的な利己主義者である自分の心をものすごく溶けさせてくれた。癒してくれた。」と。彼にとっての岩松の2年間ってのは、本当すごいゆったりと桃源郷みたいな感じで、それはやっぱり小西萬四郎がある種庇護してくれたからっていうのが、すごい大きかったみたいです。

佐伯)今でもね、南予の方っていうのはすごく柔らかいって言うか、あったかいって言うね、イメージありますけども、当時も特にその小西さんのおかげもあって、あたたかく迎えられていたんですね。

青木)そうですね。しかも庄屋さんの当主ですからね。そのなんて言うか鷹揚さって、伸びやかさというか全然違ったと思いますよ。また獅子文六がびっくりしたのが、焼け野原の東京とか食料難とか治安悪化でどうなるんだろうって言う、そこから岩松に来ると、小西萬四郎の家に町の有力者たちが日々集まる、何ていうんですかね、サロンっていうか部屋があるんです。そこに町の有力者たちが集まって日々何かやってるんですけど、獅子文六も誘われたのでなんとなく行ってみると、なんか大事なことやってるのかなと思うけど全然そんなことなくて、ず~っと雑談してたらしいんですよ。その雑談っていうのがまた本当にくだらない話で、あるところに大きい気球みたいなのが落ちたらしいと。その落ちた気球の布を使って雑巾を何枚作ったとか、あとは「餅をあの人は何個食べたけど、こっちのあの人はもっと食べた」とか。町の色んな噂話とか本当にそういう…なんて言うんですかね、ちょっとした話を朝から晩までずっとしてるらしいんですよ。

佐伯)ああ、あの…番組の冒頭でお話しした善助餅のコマーシャル、ちょっと思い出したんですけど、そのフレーズに「とっぽ話も懐かしい」なんていうフレーズが。その「とっぽ話」っていうのが、今おっしゃった雑談、ちょっと「盛ってる」みたいな?

青木)そうですね、ありえそうであれなさそうな、でもありえるかも、みたいな。嘘じゃないですけど、まあ、実のあるホラ話っていうと変ですけど(笑)。町の有力者の方々なので仕事しなくていいので、そういう人たちがなんとなく暇つぶしと、あとは情報交換とかそういうのも含めて、ずっとそういう話をしてるのを聞いた獅子文六は、だんだん心がほぐれるっていうんですかね。「まるでここは敗戦も何も、全く戦争も関係なく、こんなに長閑かで何にも困ったこともないような感じで」っていう。あれは獅子文六がすごくラッキーだったのは、そういう東小西家と有力者たちに恵まれたっていうのもあるんですけど、もう一個、すごく文六がラッキーだった理由がもう一個あって、農地改革とかが始まると日本中の庄屋って潰れていくんですよ。東小西家も農地改革とかあの後、没落しちゃうんですよね。獅子文六が岩松にいた2年間というのは、農地改革の直前なんですよ。だから戦前以来の大庄屋の、その余力がまだまだあった頃なので、だから一番、その戦争も終わって農地改革の前の、本当にその解放感に満ちた、どうでもいい話が延々続いても全然問題ないっていう、その時代に岩松に疎開できたっていうのは、獅子文六ラッキーだったのかなとは思いますね。

   

 

 


[ Playlist ]
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Aztec Camera – Orchid Girl
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Selected By Haruhiko Ohno


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