今週、坂の上に訪ねて来て下さったのは、松山電気軌道顕彰会事務局の村上純(あつし)さん。ちょうど、この日の午前中に「松山電気軌道」の石碑の除幕式が行われ、記念日の放送となりました。さて、この「松山電気軌道」は、明治期に松山の海の玄関口であった三津浜から道後にかけて、10年間だけ運行されていた路面電車です。運行期間が短かかったためか、地元の人にもあまり知られていない通称「松電」。そこには、故郷・三津浜を誇りに思う人たちの熱い志がありました。


佐伯)三津浜の人たちの「高浜じゃないぞ!海の玄関は三津浜だぞ!」っていう思いが元で誕生した設立された松山電気軌道ということなんですが、ただ鉄道会社を設立するっていうのは一筋縄ではいかなそうですけれども。どういう過程だったんでしょうか?

村上)この会社は、明治40年に三津浜の有志たちが資金を出し合って作りました。

佐伯)そうですか、はい。

村上)が、資金繰りが厳しい状況でした。日露戦争、これは明治37年から38年までの戦争だったんですが、その影響で物資などがとても不足をいたしました。最終的には福沢桃介の援助を受けるなどして、資金難などをなんとか乗り越えることができました。

佐伯)え?この福沢桃介という人物は、どういう人物なんですか?

村上)電力業界を中心に「電気王」と呼ばれた実業家でした。皆さんもご存知の、あの福沢諭吉の婿養子でもありました。

佐伯)あ、そうなんですか!そんな方の援助で、何とかこの松山電気軌道は資金難を乗り越えるということなんですね。ちなみに肝心のその路線、ルートなんですけれども、どこを走ってたんですか?

村上)松山電気軌道は、伊予鉄の路線に並行するようにルートを計画いたしました。実際にはですね、三津浜町の江ノ口から道後村の道後まで、約10 km に20箇所の停車場を設けました。

佐伯)どんな停車場があったんですか?

村上)江ノ口を出て住吉橋…

佐伯)今の伊予鉄の三津駅の向かい側にあるとこあたりですよね。

村上)そうです。それから、ちょうど堀川という川がその当時流れて…今の宮前川ですけど、それを渡って新立、三本柳、山西…とずっと走って行きます。

佐伯)そしたら住吉橋のあたりからどんどん南の方に行くっていう感じなんですかね。

村上)そうです、南の方に向いて走っておりました。

佐伯)で、山西の方に行って…。あ、路線図の簡単なものがあるんですけど、衣山に行って、六軒家に行って、萱町に行って、本町に行って札の辻に…。この辺りは今の伊予鉄道の路面電車の本町線が通ってるあたりにもなってきますけれども。で、西堀端、南堀端を通ってるから、今、南海放送の前に路面電車ありますけど、ちょうどここの部分も松山電気軌道も走ってたってことですね。

村上)そうです。

佐伯)へ~!

村上)ここの部分は特に、松山電気軌道が走っていた線路と言いますか、コースと言いますか、そこの後を伊予鉄さんが今走らせておるということですね。

佐伯)そうなんだ!へ~、知りませんでした。で、そこから一番町に出て、六角堂とか通って道後に行ってるっていう。あーそうなんですね、このようなルートを通っていたんですね。でも今、伊予鉄の名前もまた出ましたけれども、伊予鉄とやっぱり並行して走ってる部分もあるわけですから競合ですよね。その伊予鉄との競争はどんな感じだったんですか?

村上)路線図にも載っておりますが、一番町の停車場では鈴を鳴らして客を奪い合い、運賃値下げ競争をする両者の客引き合戦は有名だったそうです。

佐伯)そうなんですね!鈴を鳴らして「こっちに乗ってください」っていう感じでやってたっていうことですか。

村上)そうです。相当もうそれは大々的に大声をあげて鈴を鳴らしてということで客引き合戦をしとったというような状況だったそうです。

佐伯)じゃあ、うまいこと対抗できていたんでしょうか?

村上)まぁ値下げ競争をやったということですので当然、相当経営は苦しくなったと思います。

佐伯)そういうことですよね。ライバルと戦うために、なかなか難しいことをお互いやってたっていう感じなんですね。

村上)相当無理はしとったと思います。

佐伯)はい。そういう競争の中でも、お客さんの側としてはどっちに乗った方がいいっていう…値段以外にも何か違ってあったんですか?

村上)松山電気軌道は蒸気機関車のように煙を吐く汽車ではなく、電気で動く電車を走らせておりました。国際標準の1435 mm の軌道を採用しておりました。線路幅が広いと、その上を走る車両は安定します。また、車両が大きく、より多くの乗客を運べるという長所がありました。

佐伯)一方の伊予鉄は、線路幅ももっと小さかったんですかね?

村上)760 mm ですか、もう半分ぐらいですね、レールの幅いうのはね。

佐伯)本当ですね。だから、まだその頃はガタガタする列車で、松山電気軌道の方がもっと安定する列車でっていう感じだったんですかね。

村上)乗り心地はたいてい電気軌道の電車の方が良かったんではないかと思います。

佐伯)そうですか。でも、さっきおっしゃったように激しい競争を続ける中でどうなっていくんですか、「競争の末に」っていうキーワードですけど。

村上)当時伊予鉄は、皆さんあまりご存知じゃないかわかりませんが、貨車を持っておりました。その関係で貨物輸送に恵まれておりました。そういう関係で相当経営内容は、その当時でも良かったんじゃないかと思います。一方の松山電気軌道の方は資金力がなかったということで、体力のない会社でしたので、残念ながら伊予鉄道に大正10年に合併されてしまいました。

佐伯)はぁ。それが1921年ってことですか。

村上)そうです。

佐伯)で、10年間頑張ったけど…っていうことになっていたんですね。

   

 

 


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Selected By Haruhiko Ohno


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