今週、坂の上に訪ねて来て下さったのは、久万美術館館長の高木貞重さん。明治時代の愛媛に縁のある先人たちは、この番組で多く御紹介していますが、大正時代の人物は、あまり登場していません。そこで、松山出身の文学青年たちが発行した同人誌「朱欒(しゅらん)」を復刻させるプロジェクトを手掛けた高木さんに、俳人の中村草田男、映画監督の伊丹万作、画家の重松鶴之助たちの交流を通して、大正時代の青春群像について語っていただきました。


 

    

佐伯)さて、文芸誌「白樺」に影響を受けた文学青年だった彼らですけれども、その後の関係はどのようになっていくんでしょうか?

高木)それぞれ中学を卒業するんですけれども、あるいは中退したりもしますが、大正11年に、上京していた伊丹万作、重松鶴之助が松山に帰ってきたんですね。それがきっかけになって、松山中学時代の仲間たちが再び顔を合わせる、交流が復活したんです。この時は旧制松山高等学校の宿直室に集まって、人生について、文学について、あるいは美術についてなどを語り合うんです。もう熱心に語り合ううちにですね、そのうち寝込んでしまいですね、皆が解散するのは夜が明けてからだったという風に伝えられております。

佐伯)は~、そうですか。その中でいうと後輩なんですかね、草田男にとっても刺激的な時間だったという感じでしょうか。

高木)そうですね。このころ草田男は高等学校の学生でしたから。万作は既に社会人になってますので。このころについてですね、草田男が書き残してるんですけれども、二人が帰ってきたことによって、つまり万作と鶴之助が帰ってきたことで、楽天仲間のですね、顔つきが一変してしまったと。将来いずれかの方向で第一義的な人物にならねばならないぞというような決意が、みんなの眉の間に漂い始めたというようなことを書き残しております。そんな中での交流だったということですね。

佐伯)第一義的な人物というのは、その世界のトップというか一流のということでしょうか。

高木)そうですね、第一人者ということですね。

佐伯)に、ならなきゃいけないっていうような思いが新たに湧いてきたという。

高木)そうですね。

佐伯)その当時を偲ぶ石碑があるんですか?

高木)はい、愛媛大学教育学部の附属中学校内に石碑があります。

佐伯)あら。ちょっと待ってください。私、愛媛大学教育学部附属中学校は我が母校になるのですが…石碑???

高木)はい、石碑があります(笑)。

佐伯)ど、どこにありましたか?

高木)えっとですね、南西の角ですね。

佐伯)あの角地の芝生の中にあるやつですか?

高木)あ、そうですね。

佐伯)ああ!あの石碑!えっと、大きな通りから見えますよね。

高木)見えます、見えます。

佐伯)あの松山東高校から東に少し進むと愛大附属中学校の校庭が見えてくる、その角の、本当に角にあるところにあるあの石碑が…

高木)信号のところですね。

佐伯)そうです、そうです。…すいません、存じ上げませんでした。あれは、いつ建てられたものなんですか?

高木)それはですね、昭和44年、松山高等学校が創立50周年を迎えた時に、同窓会が建立しました。

佐伯)じゃ、さっきの話にもありましたけれども、もう松山中学から旧制松山高等学校に学校は変わって…

高木)はい、そうですね。宿直室で交流したのは、もう中学校を卒業した後ですね。

佐伯)ということですよね。で、その松山高等学校同窓会が建立したということですか。

高木)そうですね。

佐伯)へ~。なんて書いてましたっけ?

高木)その石碑にはですね、「青春、友情、希望-ここに存在せし一切のものの不滅を信ず」。滅びないですね、不滅を信ずと刻まれてるわけですね。

佐伯)すごく前向きな。

高木)ええ。この言葉は松山高校の卒業生でもある草田男の言葉なんです。

佐伯)は~。草田男が、これ建立にあたって寄せた言葉なんですか?

高木)そうですね。

佐伯)そうですか!ということはですよ、やはり中村草田男にとって、この松山高等学校時代、先輩たちも含めて色々と語り合っていたその頃の青春の輝きというものが、一生消えることのない宝物だったということの表れですよね。

高木)まさに、その通りですね。

   

 


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Selected By Haruhiko Ohno


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