今週、坂の上に訪ねて来て下さったのは、一遍会事務局長の三好恭治さん。3年ぶりにGWのにぎわいを取り戻している道後ですが、その道後にある宝厳寺を訪ねた方も多いのではないでしょうか。その宝厳寺で生誕した時宗の開祖・一遍上人について詳しく伺いました。情報溢れる現代社会で多くのものを背負いすぎていると感じる方に、気づきを与えてくれるエピソードがたくさんありました。


 

    

佐伯)御札を配って回るとか踊り念仏であったりとか、ものすごく…庶民という言葉がいいかどうかわからないですけれども、本当に分け隔てなく皆さんが参加しやすい形で布教をしていたっていうのはよくわかりますね。

三好)それでね、今おっしゃるような形ということは、難しい言葉でね、話してもわからんわけですよ、一般の人はね。庶民というか、よぼよぼのおじいさんとかおばあさんもね。

佐伯)知識人とか武士とかじゃなくてね。

三好)そう、わからんのですよね。したがって一遍が伝えようとしたのはね、日本人がわかりやすい和歌。それが僧侶がいいますから、法律の法と書いて法歌。というような形で、五七五七七というような言葉、短いフレーズで伝えていったということは、一遍のひとつの「歌聖(うたひじり)」としての特徴だろうと思うんです。

佐伯)「歌聖」ですか。どんな言葉を残されているかをちょっとご紹介いただいてもいいですか?

三好)先ほど申しましたように言葉としてはね、一遍は非常にわかりやすい言葉という形で、一つは「となふれば」…というのは念仏をするということ、「となふれば 佛もわれも なかりけり 南無阿弥陀佛 なむあみだ佛」。

佐伯)これ、非常に平易な言葉で綴られていますね。もうこの「南無阿弥陀仏」って唱えると仏さんも自身も関係ないんだよっていう…

三好)仏さんも南無阿弥陀仏と言っとるわけです。

佐伯)ああ、そういうことですね。

三好)だから自分がね、南無阿弥陀仏と我がいう時には、仏様も南無阿弥陀仏と言ってくれてるから、その中でもう仏も我もなかりけりという。

佐伯)そうですか、これ伝わりやすいですね。

三好)分かりやすいでしょう、一般の人たちにとっても。

佐伯)はい。

三好)それから二つ目にですね、おじいさんのお墓が岩手県の江刺という東北にあるんですけど、そこに行かれた時にですね、「身を捨つる 捨つる心を 捨てつれば おもひなき世の 墨染めの袖」。墨染めというのは僧侶の服です。「身を捨つる 捨つる心を 捨てつれば おもひなき世の 墨染めの袖」。

佐伯)これはどういう意味ですか?

三好)捨てるということも捨ててしまうわけです。

佐伯)はあ。

三好)断捨離ではないけどね、要するにそれはまだ意識があるわけですよね。

佐伯)これを捨ててるという。

三好)捨ててるという物にしがみついた意識があるわけですよ。一遍さんは、そうではなしに捨てるということも捨てなさいと。だから、身を捨てるという、死ぬことも全部含めて捨てきればもう思いない、そういう人生になりますよということですね。これも年配の人には分かりやすいと思うんですけど。それから三つ目がですね、これは最後に一回伊予に寄って、それから四国を通って淡路島を通って兵庫の地でお亡くなりになるんですけども、「旅ごろも 木の根 かやの根 いづくにか 身の捨てられぬ 処あるべき」。

佐伯)また「捨てる」という言葉が出てきましたね。

三好)要するに旅行中は木の根でもね、かやの木でもどこでも寝ることができると。そこでどこでも身を捨てることはできると。そんなに心配することはないと。衣食住を心配することもないと。ともかく捨てきれば全ては救われるということで、したがって「捨聖(すてひじり)」というね、言葉を一遍ではよく使われるわけですね。

   

 


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Batacotó – Camaleao
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Selected By Haruhiko Ohno


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