今週、坂の上に訪ねて来て下さったのは、建築家の花岡直樹さん。花岡さんは道後温泉本館や松山城、高知城、そして萬翠荘の修復を手掛けていらっしゃいます。今年は萬翠荘100周年にあたる節目の年!そこで、愛媛の誇る西洋建築・萬翠荘を手掛けた建築家・木子七郎について、また萬翠荘の素晴らしさについて、お話を伺いました。


 

佐伯)萬翠荘ですが、木子はどういう風にしてこの西洋建築を作っていったんでしょうか?

花岡)もちろん絵とか図面とかで学校で勉強したんですけど、百聞は一見に如かずという言葉があるように、萬翠荘を設計する前にですね、フランスへ視察に、フランスだけではなくヨーロッパに視察に行ったようですね。

佐伯)現地に行って見て来た!これは大いなる刺激になったでしょうね。

花岡)そう思います。

佐伯)で、視察して戻って、いろいろと検討を重ねるという感じですか?

花岡)いや、あまり…大正10年にヨーロッパの視察に行って、そんなにゆっくり考える暇はなかったと思うんですけども、大正11年に萬翠荘を建築するわけなんです。

佐伯)え、もう帰ってすぐってことですよね?

花岡)そうですよね、そう考えると。

佐伯)相当すぐだと思いますけど、そこで受けた刺激の熱が冷めぬうちにという感じだったんでしょうか?

花岡)そう思います。当初は別荘のつもりで計画して設計してたんじゃないかと思うんですけど、大正11年に四国でですね、帝国陸軍の大演習があった。その時の摂政宮が皇太子=後の昭和天皇であったんですけども、その皇太子が来県するということでですね、その萬翠荘に、出来たばかりの萬翠荘にお泊りいただこうということで、急きょ工事を急いで仕上げたというふうなことを聞いてますね。

佐伯)そうなんですね!じゃあ別邸…久松定謨伯爵の別邸というだけではなくて、迎賓館みたいな役割も…

花岡)その通り。当初の計画図というのが残ってるんですけどね、その時と今の出来たのと何が違うかというとですね、厨房の大きさが違うんです。

佐伯)厨房ですか。

花岡)はい。だから別邸の時は家族とかちょっとしたお客さんのための小さな厨房、台所だったんですけれども、今あるやつは地下にものすごく大きな厨房があるんで、そういう迎賓館で皆さんを迎えて大勢の食事を出すということで計画変更して、そういう風にしたんじゃないかなと思いますね。

佐伯)そうなんですか。それが図面の変化で分かるのも面白いですね。そうして手掛けられた萬翠荘。もちろん愛媛を代表する観光地となっているわけなんですけれども、萬翠荘を訪ねた時にこういう特徴があるって言うのを知っているとまた違って見えてくると思うんですが、どんな特徴が挙げられますか?

花岡)私も立場上よく案内してくれとか紹介の講演をしてくれとかいうことで言われるんですけど、じゃあ萬翠荘って一言でいえばどんな建物って聞かれた時にですね、いつも同じこと言ってるんですけれども、本格的な洋風建築、鉄筋コンクリートの建物、そしてこういう別邸という超豪華でお金をかけた建物。一番最初にですね、一番いいもの作っちゃった。

佐伯)一番最初の洋風建築が、もう最高レベル!

花岡)最高なんです。それ以降ですね、残念ながら萬翠荘を上回る洋風建築は出来なかったと言われてる。

佐伯)それだけ素晴らしいとなると、ちょっと下世話な話ではありますが、例えば建築するのにどのくらいの費用がかかったと言われてるんですか?

花岡)当時の大正11年のお金で30万円だそうですが、今の通貨に直すと約19億円ぐらいだそうですね。

佐伯)おお、19億円!

花岡)坪数が約300坪の建物なので、坪単価で計算すると、ほんと下世話な話なんですけど坪単価633万円。

佐伯)そうなんですね!

花岡)だいたい今の平均的な住宅の10倍。

佐伯)は~。まさに贅を尽くしているという。でも花岡さん、それを修復なさったんですよね。それだけ豪華な建物を修復するとなると、修復も大変なお金がかかりますよね?

花岡)かかりますね。というよりも、その坪633万、同じ金額を出して横に同じ建物を建てられるかと言ったら、私はそうじゃないと思うんですね。材料のこととか、それから修復工事してわかりましたけど工法、いわゆる技術ですよね、職人さんの技術とか。そういうものは今ではお金出してもできないんじゃないかと思うぐらい手間暇がかけられていることがわかりました。

 

 


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Selected By Haruhiko Ohno


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