今週、坂の上に訪ねて来て下さったのは、柔道家で国立鹿屋体育大学学術共同研究員の濱田初幸さん。東京オリンピック真っただ中、柔道での日本選手の活躍で盛り上がっています。遡ること57年。1964年の東京オリンピックの無差別級決勝で優勝したヘーシンク選手、その名を御存知の方も多いでしょう。この時ヘーシンクが勝利したからこそ柔道が国際的な競技となることが出来たと言われるほど、柔道の歴史にとっては大きな出来事。そのヘーシンクを育てた男が、愛媛出身の道上伯なんです!その偉業と人物像を多くの人に知ってほしいという熱い思いを持つ濱田さんのお話を聞くと、今回の東京オリンピックでの柔道競技も、別の感慨をもって見られるのでは。
佐伯)ヨーロッパで柔道を広めるのに活躍した道上なんですけれども、オランダのヘーシンクを育てた男になったというのはどういった経緯だったんですか?
濱田)そうなんですね、面白いのはフランスで柔道が普及した時には上流階級、いわゆるフランスのセーヌ川の左岸になるんですかね、“カルチェラタン”っていうのがありますよね。ソルボンヌ大学とか研究所とか、コラージュドフランスとか…
佐伯)いわゆる文教地区みたいなところですね。
濱田)そのカルチェラタンの一角に道場が最初できたんです。だから、その辺りに柔道クラブができて、初代のフランス柔道連盟の会長はキュリー夫人っていうノーベル賞取った、その御主人が会長になるんですね。
佐伯)え!!そうなんですか。
濱田)そうなんですよ。で、医者とかそういう研究者とか、キュリー夫妻のラジウム研究所の物理学者たちが柔道の監督や運営者になってたんですね。
佐伯)へ~~~~!!ビックリしました。
濱田)そうですか(笑)。ですから高級官僚、エリート、弁護士、医者、そういう人たちがやるものが柔道。で、大衆は隙間から覗くもんだったんですね。
佐伯)そうなんですか!
濱田)で、ヘーシンクとの関係性っていうのは、ヘーシンクは実はオランダの労働者階級だったんですね。建材か建築関係の労働者だった。オランダでも一緒の傾向があって、道上先生がオランダに指導者で呼ばれた時、講習会で呼ばれた時に「この青年はいいじゃないか」と。当時18歳だったそうですが、身長はやっぱり2メーター近くで80キロぐらいで。それからオリンピックの時にはヘーシンクは130キロぐらいになるんですね。だから50 kg ぐらい増えてるわけですよ。大男になっていくわけですね。でも当時は労働者階級でやせ細った、ただの背の高い男だったそうです。道上先生はそれを見出して「この男にちゃんと柔道やらすように」ってオランダ柔道連盟の人達に言ったら、オランダの指導者たちが「彼は労働者階級から駄目だ」って猛反対したんです。
佐伯)そんなことが…
濱田)で、道上は「彼に柔道やらさないんだったら、俺はもうオランダに指導に来ない!」って言ったんですよ。で、「それは困る!」っていうので、あのヘーシンクに柔道をやらすことをオランダ柔道連盟が認めて。それがヘーシンク先生18歳。それから、どんどんどんどん強くなっていって、1964年の東京オリンピックへつながってくんです。そういう意味では、道上は選手を見抜く力、発掘力、洞察力があったのではないかなと。
佐伯)すごいですよね。
濱田)さらにやっぱり今“多様性の時代”って言いますけど、エリート層だけがやってた柔道を、「いや、そんなことはないんだ」と。「労働者階級の人もいれて、柔道を融合させてやってくんだ」と。そういうですね、差別っていうことをしなかった、そういう人ではなかったかなという風に思いますね。柔道を通して感じることができました。それが今でも道上がフランスの人たちに愛される理由の一つではないかなと。ダイバーシティを乗り越えてる人だったっていうこと。それからグローバル化ってことを大切した人なんだなっていう。そういうのも秋山兄弟と似てますよね。フランスで騎兵を習ったり、真之の方はアメリカに渡って海軍の戦術を学んだと。早くからグローバル化に先駆けていた人。そこが共通してますよね。
佐伯)世界のなかの日本柔道と言うか、日本を見つめていたというところなんですかね。
濱田)そうですよね、だから柔道を通して日本の文化を発信したいと思いが道上には私はあったと思いますね。
[ Playlist ]
Kings Of Convenience – Gold In The Air Of Summer
Bell & Sebastian – Waiting For The Moon To Rise
Jose Gonzalez – Heartbeats
Sly & The Family Stone – Hot Fun In The Summertime
Selected By Haruhiko Ohno