ゲスト:愛媛大学教育学部 国語講座(近代文学)准教授 青木亮人(まこと)さん
佐伯)愛媛で「坂の上の」と言えば、誰しも「坂の上の雲」を思い浮かべるだろうなと思いまして。初回ですので、それに関するお話を伺いたいと思って青木さんに来て頂いた次第です。
青木)なるほど。正岡子規とか高浜虚子とかも含めて俳句を研究しているということでですね。あとは、秋山兄弟もそうなんですけれども、明治の松山藩や、明治・大正・昭和の愛媛の文学や文化全般に関心があります。そうやって見ていくと、明治の頃の松山藩というのは、ちょっと特殊な感じなんですね。松山藩というのは松平という徳川家の親戚のような藩で、明治になるとどうなるかというと…明治の時代は天下をとったのは薩摩と長州で“幕府を倒した側”なので、幕府についた松山藩というのは賊軍とされちゃったんですね。「勝てば官軍、負ければうんぬん…」の「負ければ」の方になっちゃったんです。で、いちばん可哀想な部類の階級の人たちが士族だったんですけど…
佐伯)武士の階級。
青木)そうなんです。明治になったら「もうちょんまげもやめてください。刀もやめてください。あなたがたは負けました」って言って、それまでの特別階級が全くなくなったんで、自活しなきゃならなかったんですけど、そんな自活をしたことがなかったんで、どうやって暮らしたらいいかみたいなのがかなりあって。さらに松山藩の武士の「士族」と言われた人たちは、「自分たちは賊軍と言われて汚名を着せられた」という意識がすごく強かったんです。しかも、子規や秋山兄弟というのは、その士族の武士団の中でも位がやや低め。なので、「何するものぞ」という下克上にちょっと近い感覚を強烈に持っていた。賊軍とされた松山藩の汚名をすすごうみたいな感覚が、実は子規には凄く強烈に残ってたんですよね。今の私たちは、俳句革新をした俳句の父「子規さん」という感じで偉大な文学者というふうに見てますけど、秋山兄弟が軍隊でやったことと正岡子規が俳句でやったことは、“松山藩士のその後の明治の処し方”という大きい点でいうと、あんまりぶれがない。それぐらい子規ってかなり強烈に、藩士としての、士族としての誇りを持っていた。
佐伯)そうなんですね。
青木)「松山藩はあの時は負けたかもしれないけれども、士族として、新しい明治のお国の役に何とか立ちたい」と思って、「なのに、なんでこんなに俳句はぬるい世界なんだ。こんなに江戸時代以来のゆるい俳句をやっているだけじゃ、お国のためにならないじゃないか」という意識がそれとなくある方なんですよ。「政治を変えよう」というのと、「俳句を変えよう!文学を変えよう!植民地にされないように新しい時代の扉をなんとか自分たちで!」という思い。そのひとつが俳句革新で、多分ですけど司馬遼太郎はそのあたりに反応した。子規と秋山兄弟を並べて、あの賊軍とされた松山藩士が坂の上の雲を見上げて、「しかし新しくお国のために」という、彼らからすると「何するものぞ」みたいなのが、司馬遼太郎からすると“若き国家のさわやかな青春”というふうになったんじゃないかな、と個人的には思うんです。
佐伯)じゃ、秋山兄弟や子規などは松山で生まれたからこそ、そのような志を持って生きていった?
青木)極端な話をすれば、彼らが宇和島藩士だったら、多分こうならなかったという可能性が高いです。宇和島藩というのは倒幕側にまわって、かなり新しいことをやってて。大村益次郎といわれる人たちとかシーボルトの娘といわれる
佐伯)イネさん?
青木)そうです。ああいう方々を宇和島藩の庇護下に置いたりと、かなり進んだところがあったので、宇和島藩には国家の中枢のいろんなジャンルで、かなり薩長に近いところで活躍できた人たちがいた。けれど、松山藩はやっぱり難しいんですよ。そうなると、文学とか軍部とか、ある程度実力で上までいけるようなところで力を発揮するっていうふうに、最初からもう道が限定されていた。そのあたりの切迫感みたいな士族特有の意識と松山藩士というのが合体すると、ああいうことになったのかなという気がします。
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