今週、坂の上に訪ねてきてくださったのは、大洲市立博物館 副館長の白石尚寛さん。放送中の大河ドラマでも話題の豊臣兄弟に仕えた大洲ゆかりの人物をご存じですか?それが大洲藩祖の加藤光泰。藩祖とは、藩の礎を築いた人物をさします。現在、大洲市立博物館では特別展「豊臣秀吉・秀長兄弟に仕えた武将 大洲藩祖 加藤光泰」を開催中。ちなみに大洲初代藩主は光泰の息子・貞泰です。大洲とは遠く離れた美濃国に生まれた加藤光泰が、なぜ大洲藩祖と呼ばれるに至ったのか。そこには豊臣兄弟との深い関わりがあったのです。今回は「加藤光泰・貞泰親子と豊臣兄弟」をテーマに、「浪人中の光泰、秀吉に見いだされる」「加藤光泰と加藤清正」「神になった光泰」というキーワードで、その人物像に迫ります。
※番組のトーク部分を、ラジコなどのポッドキャストでお楽しみいただけるようになりました!ぜひお聞きください。
佐伯)大洲との関わりは?
白石)はい、光泰自身は大洲に来ていませんので、亡くなられた後ですね、加藤貞泰、息子が、甲斐の国から今度は黒野の方に移されていきます。
佐伯)黒野?
白石)岐阜県ですね。はい。その後、伯耆国=鳥取県の米子、そして元和3年、1617年に、この伊予国の大洲に移ってまいります。
佐伯)本当に転々として・・・回り巡ってってさっきおっしゃいましたけれども。
白石)そうですね。
佐伯)どうしてそういうふうに移されたんですかね。
白石)光泰は亡くなる前に浅野長政に遺言書を託しています。光泰の治める甲斐国っていうのは、秀吉にとって大きな脅威である徳川家康の領地と接しておりまして、非常に重要な場所でありまして。光泰自身もですね、年少の貞泰にとってには荷が重すぎと考えていたようです。遺言書には「『甲斐国を別の武将に任せて、自分の子供は別の場所に領地を与えてほしい』というふうに秀吉に伝えてくれ」ということを遺言書に書いて亡くなっております。
佐伯)そうなんですね。いや、なんか大事なところを任されてるけど息子には荷が重いっていうのはなんか不思議な感じもしますけど、そういう伝言を頼んだと。
白石)大きな勢力と渡り歩いてきた光泰らしいですね。身をもって知っている光泰にとっては、やはりやっぱ息子をですね、そういったところで置くよりも安全なところに移してもらうという部分が、そういったのもあったのかもしれませんっていうね。
佐伯)重要なところを任されてるのはある意味名誉かもしれないけれども、考えようによってはそっちに攻められてお家がなくなるかもしれない危険性をはらんでるってことですもんね、なるほど。で、甲斐国から別のところっていうことで、その後はどうなるんですか。
白石)はい黒野に移った貞泰は、黒野城を作って城下町を整えていきます。黒野では領民が尉殿堤(じょうどのつつみ)呼んでいます治水事業なども行っております。そして慶長5年ですね1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家康方についていきます。豊臣家に恩のある加藤家…
佐伯)確かにそうですよね。
白石)に、とりましては石田方についてもいいようなものなんですけども、実は光泰の死については、一説には石田三成による毒殺と伝えられていまして、これが家康についた理由とも言われております。あくまでも一説なんですけども。
佐伯)いや、二つ目のキーワードの中で、朝鮮出兵のときに石田三成と口論したっていう話ありましたよね。その因縁が残ってたのかもしれない?
白石)そうですね、無事朝鮮から日本に引き揚げる、そういった日に石田三成から祝宴ですね、祝いの場を設けられて、それに出席して、そこで帰ったところ吐血して亡くなったと。
佐伯)怖い怖い!わ、もうなんか、これぞ戦国時代と言ったエピソードですが、そういう説があるということ…そうですか。
白石)その説で徳川方についたっていうふうな言われ方、はい。
佐伯)へ~、そうですか。で、徳川方についてそっから先に大洲へっていうことですか。なんかあんまりメジャーじゃないっておっしゃいましたけど、結構いろんなエピソードがありますね。
白石)そうですね。加藤家の歴史書があるんですけども、そちらにそういったことが書かれています。
[ Playlist ]
Fernanda Porto – Auto-Retrato
Povo – Million Ways
Saint Etienne – Nothing Can Stop Us
native – everafter
Selected By Haruhiko Ohno




