今週、坂の上に訪ねてきてくださったのは、鬼北町の偉人・武左衛門の研究家で、旧日吉村教育長でもいらっしゃった大森時政さん。12月7日にエフナン南海放送で放送予定のラジオ公開生ドラマ「風の男BUZAEMON~フルコンタクト」を前に、改めて武左衛門が率いた一揆の歴史的背景や意味などを伺いました。200年以上が経った今でも、夏祭りでは武左衛門にまつわる行列が町内を練り歩き、盆踊りや太鼓にもその名が残るなど、地域で語り継がれている武左衛門について、「大正11年、鬼北で四国初のメーデー」「破られた約束」「武左衛門を訪ねて」というキーワードで掘り下げます。
※番組のトーク部分を、ラジコなどのポッドキャストでお楽しみいただけるようになりました!ぜひお聞きください。
佐伯)一揆を起こそうってなったときに、どういう作戦を立てたんですかね?
大森)まず教訓になったのは、土居式部騒動のことが教訓だったと思います。絶対だからバレないように藩内の農民たちをですね、やっぱり団結させる必要がある。そのために武左衛門はですね、「ちょんがり語り」って言うんですけれども、「ちょんがり」というのは一つの浄瑠璃語りのような門付芸の一つなんですけれどもね。その「ちょんがり」になって、藩内87ヶ所あるんですけれども、それを回りましてですね。有力なその指導者、その地区ごとに獲得していった。これが成功の一つの大きな要因だというふうに思いますね。
佐伯)当時のことですから、歩いて回るしかないでしょう?時間もかなりかかるんじゃないですか。
大森)そうですね、3年間がかりで仲間を集めていったっていいますね。
佐伯)3年!よくその間バレずに…
大森)そうですね、だから余程それだけ…逆に言えば農民たちが追い詰められていたのかなということでしょうね。この作戦が功を奏してですね、24名の同士者を得ます。そしてこの同士者を中心にしてですね、全ての村々を立ち上がらせることができたということですね。そして寛政5年2月、武左衛門をリーダーに農民一揆が起こりました。
佐伯)はい。
大森)一揆勢はですね、広見川を下って、さらに三間川をさかのぼって、窓峠という峠があるんですけども、その峠を越えて、宇和島藩中間村、現在宇和島の伊吹町にありますが、八幡神社という神社があるんですけれども、その表に流れている八幡河原に集結しましたですね。
佐伯)宇和島藩に。
大森)というのは前提としての吉田藩に再々要求書を出すんですね。一揆が起こる前年の12月頃にですね、出すんですけれども、その都度吉田藩は握り潰すんですね。
佐伯)ほ~。
大森)吉田藩もちょっと勘違いがあったんだろうと思いますが、それは「どうせ農民たちが出ていってもそれは御用商人に対する恨みだから、御用商人を潰すぐらいのことだろう」というふうにしか考えていなかったんだろうと思います。だから再々出す要求に対しても、「全て従前の通り」ということで拒否を続けてきたわけですね。ですから最後の農民たちが考えたのは「これはもう吉田藩にお願いしてもどうにもならん」と。そうするとやっぱり「親藩である宇和島へ出て、宇和島の裁定を仰ごうじゃないか」ということが作戦であったというふうに思いますね。
佐伯)それで宇和島に、ということですか。だけど、宇和島までの方が遠いでしょう?
大森)遠いことはないですね。
佐伯)あ、そうですか。
大森)ただ、藩が違いますから通行の許可とかいろいろ得ないかんですから、煩わしいところがありますよね。
佐伯)ですよね。でもそれを差し引いても、もうとにかく親藩である宇和島藩へと…
大森)そうですね。
佐伯)ですからそれだけ思いもたぎってるでしょうし、どんな様子で進んでいったんですか?
大森)まずその出で立ちはですね、紙子の着物ですね。それだけではなくて、粗末な木綿の着物を着てですね、手には大綱、松明、長い竹槍などを持って出たそうですね。それから記録の中にあるのは法螺貝を鳴らしながら農民たちが「出るか出るか」と。「出なかったら帰って礼をするぞ」と言いながら、その沿線の農民を誘い立てて出ていったというふうに記録がありますね。
佐伯)そうなんですね。
大森)途中、吉田藩の役人で代官が出てきて、止めようとするわけですよ。なかなか農民たちが言うこと聞かんので、「捕まえたら帰るだろう」ということで2人ほど農民を捕まえて縛ったそうですね。それに農民たちが怒って、もう何百人というふうに膨れ上がってるわけですから、代官を取り囲んで、代官も堪えなくなってね、庄屋の家に逃げ込んだという、そんな話もありますね。
佐伯)じゃあ本当に苦しみを耐えてきたその農民たちの思いっていうのが大きなうねりになって、進むほどに仲間も増えていったということなんですね。
大森)そうですね。それで八幡河原に集結して、持ってきた薦であるとか茣蓙であるとか、それから竹槍、そういうのを使って、八幡河原で声掛けをするんですね。折から大雨で、2月ですから一番寒いときですね、冷たい雨の中で佇んでいたというふうに言われておりますね。
佐伯)そのときにはもう何人ぐらいになってたんですか?
大森)87カ村全村から集まった農民がですね、「村ごとに何人出た」という記録があるんですが、それを足しますと7647人とありますね。
佐伯)それほどの人数にまで膨らんだわけですね。
大森)そうです。
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Selected By Haruhiko Ohno




