先週木曜日は、日本テレビでの会議のため東京出張でした。
金曜日帰社後、更新予定が、そのままずるずると・・・

←会議まで2時間くらい時間があったので、ぷらっと赤坂あたりを散策。とてつもなくでっかい(田舎もんにはそう見える)ビル群の間に、ぽっかりと異空間のような神社を発見。日枝神社といって、国会議員なども参拝するとても有名な神社だそう。かわいい母子ザルの狛犬(?)を見つけました。それにしても、周辺のあちこちに警視庁の警護車が。官邸の目の前だったからね・・・。

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全国のアナウンス責任者が一堂に会する会議だったので、被災県の放送局の話は、とても重いものでした。
瓦礫の山だった街に、少しずつ人が戻ってきた被災地域に、あるアナウンサーが取材に行ったときのこと。
取材先のおばちゃんから、声をかけられたそうです。
「○○ちゃん(アナウンサーの名前)、このおばあちゃんね、きょう、いいことがあったんだって」
その女性は、となりにいるお年寄りに、よかったねー、と何度も声をかけていました。
○○アナが、「どんないいことがあったんですか?」と女性に問うと、
「ずっとみつからなかった、じいちゃんの遺体が見つかったんだよね。よかったね、ばあちゃん」-。
○○アナは、声が出なかったそうです。
これまで、「よかったね」という言葉は、楽しいことや嬉しいことなど、プラスの出来事があったときに使う言葉だったのに、「遺体が見つかって」よかった…とは。
「よかったね」という言葉の重さと、被災者が、どれほどの苦しい思いを抱えているのか、現実を目の当たりにした、という話でした。

いま、復興の大きな妨げとなっているのが、瓦礫の処理、といわれています。
この受け入れに対して、みなさんそれぞれの考えがあると思います。

「基準値以下のもの」「福島の瓦礫は一切出さない」という国の条件の中で、
国民全体で、みんなが少しづつ負担しよう、という意見もあれば、「(放射能で汚染されているに違いないから)1ミリたりとも自分の身近には寄せない」という、意見もあります。

私自身は、縁あって、同じ時代に生まれ、同じ国に生きているのですから、困っている人の負担を受け入れるのは、お互いさま、という考えです。
ただ、食べ物にしろ、「東北のもの」ということだけで、科学的根拠もなく感情論で拒絶反応を示す人に対しては、怒りさえ感じます。
たまたま私たちは安全な場所にいただけで、もしかすると、逆の立場だったかもしれないんですから。

「コップに水が半分ある」ということに対して、「半分もある」と考える人と「半分しかない」と考える人。数字ひとつにとっても、受け取り方は、その人の人生観と同じように、まったく違ってきます。
「私の意見は正しい、それ以外はバカ」と、異論を拒絶するのではなく、「みんなそれぞれ違う」ということを認めながら、どう折り合いをつけていくか。
いまのわたしたちの課題なんですね。