「かーきかーき」と歌いながら遊ぶタコ松。
白い紙に描かれたクレヨンの線は、床までのびて、本棚をつたい、チェスト・壁にまでたどり着いていました。
家じゅうキャンパスだわ。

ところで、いま、小学校で学級委員というものがなくなりつつあるとか。
授業の始まりの掛け声をだしたり、学級会の進行をしたり、クラス代表で全校集会で発表したりする学級委員(長)。
その理由を、ネットなどで調べてみると、「委員になれなかった子供が傷つく」「劣等感が生まれる」なんだそう。

ちょっと待ってよ。委員長になれなかったら傷つく?劣等感?
ほんとにそうなのか?

子ども時代のことを思い出して見ても、委員長になれなくって傷ついたり、自分はだめな人間だと劣等感持った人って、はたして何人くらいいるんだろ。

それは、委員長=優れた人格で、それ以外はダメな人間、ということを前提にした“オトナの思い込み”じゃないのか?

きっと子どもの世界では、「○○ちゃんは、しっかりしてるから、委員長に向いてるよね」「△△くんが委員長になったけど、ちょっとおっちょこちょいだから、みんな助けてあげようね」と、素直に受け入れてたりするんだよね。

やっぱりね、誰かをリーダーに選んだり、リーダーの下で何かをするという、小さいころからの経験は大事だと思うのよ。

わたしは、タコ松には、たとえば、学級委員になりたかったけどなれなくて悔しい思いをしてほしい。
じゃあ、リーダーに選ばれた人は、タコ松よりどんな所がすぐれていたかを学んでほしい。そして、どうしても学級委員になりたいなら、どうやってみんなから信頼を得るような行動をしていけばいいかも知ってほしい。
そして、「すごいね、学級委員になれたね」と、選ばれた友達に称賛を送ってほしいし、リーダーをたてたり、協力するという謙虚な気持ちも持ってほしい。
学級委員という役割があるだけで、こんなにたくさんの経験ができるのよ。

その機会を奪ってしまうのは、寂しいなあ。

こんなんじゃあ、リーダーを選んだり、みんなで育てたりすることができない人間ばかりになってしまわないか?

翻って今、足を引っ張り合うことだけにエネルギーをそそいで、「育てる」ことができない日本になっているのは悲しいことだ。

※ちなみにタコ松が通うであろう松山市内の小学校では、7割近くの学校に学級委員がありません。理由を聞いてみると、「それぞれの行事ごとに役割を決めて、みんなが平等に順番に、いろんな役割ができるようにしている」そうです。
実社会は、そうはいかんのだけどな。