「10円手相のおいさん」の記憶がある、ぎりぎりの年代かもしれない。

師走の夕暮れ時、母につれられて三番町あたりの飲み屋さんの前に、古い木箱のようなスペースに座っている桂山さんのところに行きました。

「乞食身なりのおいさん」という風聞だったので、枯れたおじいちゃんを想像していたけど、大きな体で大きな鼻と大きな目、ずいぶん男前のおいさんだった記憶があります。

10円易者の村上桂山さん、40年前に亡くなってからも、多くの人が偲ぶ活動をしていました。知り合いのおばちゃんも、毎年命日には会を開いていたようでした。

みんなから愛されていたんだなあ。

 

十円易者 村上桂山 風狂の路上人生 田中修司  (アトラス出版)

 

山口の貧しい農家の4男に生まれた桂山さんは、僧侶の修業に入る。しかし鳥取で女性と駆け落ちし、姫路にたどり着くも、困窮し、女とも別れ朝鮮半島に向かう。日中戦争が勃発し、なぜか松山にたどり着く。

そして桂山さんの一目ぼれで16歳も下のチエノさんと結婚、寺守として新居を構えるも、長女の死により、家族から離れて、電気も水道もトイレさえないあばら小屋に住み始める。

ただ年に一度、おおみそか1時間だけ、家族のもとに帰るのみ。

 

なぜ桂山さんは、あえて家族から離れ、法衣も捨て、「凄惨な塒(ねぐら)」と「乞食のように路傍に座る」生活を選んだのか。

 

桂山さんは、多くの句や画を残していますが、「糞」という言葉がよく出てきます。

「出鱈目も悟りも同じ糞の味」という代表的な句がありますが、人々が忌み嫌い隠すものでもありますが、生きるものみんな関わらないものはない。貴・賤、富・貧、勝・負にこだわるばかばかしさを笑っているようにも思えます。

 

連日、老若男女が列をなしたという、10円手相、桂山さんの箱車。

戦後から高度経済成長期、決して豊かでなかった時代に、心のよりどころを求めてやってきたのでしょう。

列についた母も、姑、小姑たちがすむ家に嫁ぎ、酒におぼれた夫と子どもを抱え、いろんなものを背負っていたんだろうなと思う。

手相をみてもらったあと、渡された紙切れに描かれていた句。

母の表情が一瞬緩んだのを覚えています。

 

「生きておれ 食うことのみが 人の道」だったのか、

「みなうそよ じゃかもこうしも きりすとも」だったのか、

「つらかろう おれも乞食を 五十年」だったのか―。

 

この本には桂山さんの作品の数々が掲載されています。

ヘタウマという言葉がありましたが、なんとも味のある絵とことば。

こころに沁みます。

 

ちなみに、そのときわたしも手相を見てくれました。

手のひらを裏返すまでもなく、ひとこと「この子はほっといでも大丈夫じゃ」―。

その通り、ほっとかれましたが、50年以上ぴんぴん生きています。