『戒田節子アナウンサーに泣かされた朝』

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By田中和彦

33年3か月。彼女がラジオ番組『歌のない歌謡曲』を担当した年月です。

ラジオの改編の度に『歌ない・・・』だけは続けてやらせてくださいと熱く訴えていましたっけ。

60歳の定年退職を間近にして、今朝はその最終放送日でした。

気持ちを押さえて、感情を押さえて語る彼女の放送に久々に泣かされました。

“言葉は静かな方が伝わる”

忘れていたアナウンスの鉄則を思い出さてくれました。

※radikoのタイムリー機能で再視聴できます。便利な時代になりましたが、放送の魂は変わりません。

戒田くんお疲れ様。そして・・・ありがとう。

↓radiko再視聴はこちらから(2018年4月6日まで視聴できます)

http://radiko.jp/share/?sid=RNB&t=20180330065950

 

『桜。そして相方(あいかた)の条件』

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By田中和彦

明け方の夢は・・・僕が売れっ子漫才師になった夢でした。

僕の相方は、かなり年上の中年男。頭に相撲取りのまわしをターバンのように巻いた奴。

ネタも僕が考えているんだけど、彼は何にもしない。寄席が終わったら飲み屋、女に移動する。

周りのみんなにコンビ別れしなさい!と言われるんだけど、

彼の合いの手、間の作り方は僕にピッタリなんで、そんな気持ちになったことはないんです。

・・・夢から覚めて、しばし哲学タイム。

最高のパートナーの条件はなんなのか?・・・そんな事を考えながら金曜日の朝のゴミ捨てに行ってきました。

パジャマ、素足で外に出れるようになったんですね。

ウチの町内のゴミ捨て場所は実は美しい桜が一樹あるんです。足元には花びらが落ち始めていました。

人生、ま、いいか?!・・・なんて、一瞬。

桜と夢のせいです。きっと・・・

※偶然にシャッターが動いてできた写真。

『あなたがいたから愛媛マラソンの“今”があります』

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By田中和彦

愛媛マラソンのテレビ中継は梅錦山川さんの存在があったからこそ始まり、

継続し、現在の市民マラソンの人気に繋がりました。

お世話になった梅錦山川の山川浩一郎さんの退任送別会が昨夜ありました。

30年前の先輩営業マンも集まり、草創期の愛媛マラソンの思い出話に花が咲きました。

写真は合田アナ。
そして、かつて「Jポップ」などのラジオを喋っていた玉井さん・・・など、所縁のある懐かしい仲間も大集合しました。

仲間って、いいもんですね。いつまでも、フォーエバー・・・って感じです。

ま。南海放送って、そういう会社なんですけれど。

『お笑いの正義』

In Categoryヒコヒコ日誌
By田中和彦

自称・漫才評論家の僕としては(笑)「和牛」の評価は最高ゾーンにあります。

1977年。東京某キー局のディレクターの入社試験の時。

「吉本芸人」の全国化、例えば「ヤスキヨ」とか若手漫才師をもっと登用すべきだと面接で豪語したんですが、
試験官に冷笑されてしまった思い出があります。

「君は関西出身だからね・・」と。

それを数年後に他局がやって「漫才ブーム」がきたのはご存じの通りです。

今、いちばん面白い漫才師が「M1」を取るべきだと(他系列局のイベントながら)思っているので、

和牛のお二人に、今年は「M1」を獲ってください。”お笑い正義”を正してください・・とお話ししました。

そしたら川西さんが
「そんなぁ、他の人が悪役みたいなこと・・」と柔らかに首を振られました。品のある方です。

水田君とは同じ伊予市出身、北山崎小学校の同窓でもあります。

南海放送が彼らのレギュラーテレビ新番組をスタートすることになったのは、僕としては最高の気分です。

企画した若き編成マンに、そして、応えてくれた「和牛」に感謝!!

どうぞよろしくお願いします。

※番組名「和牛のA4ランクを召し上がれ!」(毎週金曜24時30分~24時59分放送)
 初回放送は4月13日(金)24時30分からです。

『吉田拓郎。そして村下孝蔵の海』

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By田中和彦

南海放送サンパークがまだアンテナ公園と呼ばれていた頃。

デビュー前後の吉田拓郎がギター一本抱えて広島からやってきた・・・と、大先輩に聞いたことがあります。

1970年あたりのことだと思います。

広島の大学生だった吉田拓郎がフェリーで海を渡っていたんだな、

そして その時なにを思っていただろう・・・と。

彼は後に「東京に出て行く」も「おけいと離婚しました」も、ラジオで発表しました。

『松山行きフェリー』を作った頃の村下孝蔵くんも松山のロープーウエイ街にあった伝説のライブハウス「9th」時代によくお会いしました。

1981、2年の頃。FM愛媛や僕のラジオの深夜放送が始まる直前でした。

彼も吉田拓郎と同じくこの瀬戸内海をしょっちゅう渡っていた訳です。

夢がいっぱいあったんだろうなあ。

これから帰る松山。

僕の夢は・・・なんだろう。(宇品港にて)

※「松山行フェリー」村下孝蔵 1980年