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『君の手柄だ』

In Categoryヒコヒコ日誌
By田中和彦

実は明日。東京の総務省に呼ばれて「大臣表彰」を受けることになりました。

当社がどこよりも先駆けてチャレンジしたワイドFMの同期放送に対してのお褒めの表彰です。

同期放送。※同じ周波数で放送すること。

AMラジオは南海放送は同じ周波数で放送していますが、
波長の短いFM波では、同期放送は不可能とされていたのです。

松山局と新居浜局は同じ91.7MHzですが、
両方の波が混信する例えば小松地区で雑音が出ないようにどう処理したか?・・・
みたいな”技術”に対して、です。

社を代表して僕が申し訳なく行くんだけれど、さっき技術局長がやってきたから、一言彼に言っときました。

「君の手柄だ」

どうぞ。高笑いしてください(笑)。

但し、大人だから・・心の中で。

『フェイスブックが連れてきたもの』

In Categoryヒコヒコ日誌
By田中和彦

ラジオの深夜放送時代。
AM電波の特性で大分や広島にも放送が届いていたものだから県外リスナーも多かったんです。

ある日。当時の上司、D報道制作局長が
「田中君。大分にリスナーが多いんだったら一度、みなさんと会ってきたらどうですか?」と。

このDさんはそののち、社長-会長になられて僕のラジオドラマ制作に理解を示してくれた恩人となります。

お金のないラジオで(笑)そんな出張は珍しいんですが、当時は飛んでいたコミューターに乗って大分へ。

その前の週の放送で「こんど行くから、暇な人集まってください」と。

どっかの広場で待ち合わせたら、みんな初対面の20~30人の方が集まっていて、「さて、どうしよう」と(笑)。
どっかのホールに移動したっけ。それぞれ自己紹介しながら・・

写真は当時の大分の有名リスナー。「みえのひろみち」君と「ウルトラの父」君。(いずれもラジオネーム)

三重野君は異動していまは宮崎にいるはず。
ウルトラ君はもともとバイク狂で、夢を叶えて就職した静岡県磐田市の有名なバイクメーカーに勤めているはずです。

FBのお蔭で、中年化した(人のことは僕も言えないけど・・笑)二人のショットが送られてきました。

あの頃の高校生がこうなっているんだから、僕も仕方ないよな、と。
一人微笑んでいます。

フェイスブックが・・・”嬉しく、懐かしい記憶”を連れてきてくれました。

ありがとうね。

『食欲がすべて』

In Categoryヒコヒコ日誌
By田中和彦

木曜日はかつての僚友・松沢はつみちゃんがラジオ昼ワイドの「TIPS」担当なので来社します。

その度にスタジオからメールを貰うので、ふらっと5分ばかり顔をだします。よぅ?!…と。

「あんた、大丈夫なの?健康検査どうだった?」
ちなみに彼女は同い年なんですが、入社は一期先輩。僕を「あんた」と呼ぶ女性は、この世で彼女だけです。

あっ?!検査オールセーフ。医者に二度と来るなみたいに追い返されたわ。
(あっ、お医者さん、嘘です。ラジオ的会話の脚色作法なので許してください)

「よかったじゃないの?あんたは仕事をあれもこれもし過ぎなのよ。ラジオ、喋っていかない?」

まるで、お茶飲んでいかない?と下町のおばちゃんみたいな口調で言われました。

また、今度。今はラジオより肉食べたいから…と、別れました。

ランチはお肉メニューの定食を。

“人生は食欲がすべて”

スタイリステックスに「愛がすべて」って、なかったっけ?
そのパロディタイトルなんだけど、なかったらアホみたいだな・・・

あった、あった。「愛がすべて」1975年ディスコ全英チャート1位!!
何故かアメリカではヒットせず…。

『GYAO!から貰った二重の喜び』

In Categoryヒコヒコ日誌
By田中和彦

去年、南海放送が制作したネット動画『陸上少女』が「Yahoo!映像トピックス賞」を頂きました。

あの美し過ぎる短距離ランナー川中葵琳さん(当時 中学生)を特集した動画です。

東京・赤坂で今日、表彰を受けました。

手渡してくれたのはGYAO!コンテンツビジネス本部の本部長・栗尾和真さん。なんと今治出身で高校の後輩でした。

インターネットの世界でも頑張っている後輩、県人がいるんだな…と、二重の喜びでした。

ありがとうございます。

※受賞動画はこちらのアドレスでご覧になれます(南海放送オンデマンド「えひめ国体応援番組YELL!!」)

http://www.spiral-pf.com/rnb/2016/07/26/%e3%80%8c%e3%81%88%e3%81%b2%e3%82%81%e5%9b%bd%e4%bd%93%e3%80%80%e5%85%a8%e5%8a%9b%e5%bf%9c%e6%8f%b4%e5%ae%a3%e8%a8%80-yell%e3%80%8d%ef%bd%9e%ef%bc%83%ef%bc%98%e3%80%80%e9%99%b8%e4%b8%8a%e5%b0%91/

『輝く星座』

In Categoryヒコヒコ日誌
By田中和彦

その昔。うちの会社が高校野球の全試合を一回戦からラジオ中継していた時代。

新人に毛の生えた程度の僕は今治球場駐留。明日の第一試合担当のため旅館に前泊していました。

終日、雨。

「田中ぁ。明日はどうせ雨で中止や。麻雀するぞ」と先輩から言われて、解説者と3人で部屋で延々朝まで徹夜。

「朝飯食ってから一寝入りするか」と先輩がカーテンを開けたら、なんと素晴らしい晴天!!!!!!!!!!!

ギョえー。先輩、僕・・資料作っていません。

「慌てるな。実況に徹したらいいんだ。資料は飯食わずに球場に行って両方の監督とぎりぎりまで話しておけ」

ゲームが始まる。

ピッチャーが汗を左肩のユニフォームで拭う描写とか上空の雲の形とか(笑)・・なんとか一試合喋り終えたら、本社から電話。

部長から・・「素晴らしい放送だった。田中君、一皮むけたね」

先輩に、部長からお褒めの電話でした、と伝えると。

「だろ。そんなもんなんだよ。ギャハハ」

織田信長が奇襲は「桶狭間」の一回しかしなかったように、たまたま上手くいったからといって、以後放送前日に遊ぶことはしませんでしたが・・・

朝ごはん食べながらフィフス・ディメンションの「輝く星座」のテレビ特集を観ていて・・

♪ レッツ・ザ・サンシャイン

のとこで。あの日のカーテンからこぼれる朝の光を思い出し、フトそんなことを・・・(笑)。

『そして、神戸』

In Categoryヒコヒコ日誌
By田中和彦

ラジオの深夜放送を担当していた時代に一貫して、高校生に喋っていたことが一つだけあります。

“19歳が最高です。19歳の時に聴いた曲、読んだ本、逢った人・・が人生に一番影響をしますからね” と。

『そして、神戸』(内山田洋とクール・ファイブ)は僕が19歳の時のヒット曲です。

当時は、天地真理や郷ひろみがデビューした後の全盛期で次々とヒット曲をとばしていました。
学園祭にきた天地真理が控室でたばこを吸っていたというニュースがキャンパスを駆け巡り、
「そんなのは嘘だ!」と真理ちゃんファンが怒っていたのを思い出します。

その一方で『喝采』(ちあきなおみ)や吉田拓郎、三善英二などが記憶に残っているのですから
音楽シーンは賑やかでした。

神戸の震災の後。クール・ファイブはこの唄を封印していたそうです。悲しい恋歌だから・・。
でも神戸のみなさんの10万人の署名が集まり紅白歌合戦で歌った年がありました。

音楽の力ですね。

ランチミーティングが終わったら、僕は「そして、神戸」(笑)。
ちょっと神戸出張に行って参ります。

※『そして、神戸』内山田洋とクール・ファイブ(1972年11月リリース)

『薫風に・・・あなたを思う』

In Categoryヒコヒコ日誌
By田中和彦

窓を空け放つと、飛び込んでくる5月の風。

薫風。なんと美しい日本語だろうと思います。

僕が学生時代に入り浸っていた雀荘が早稲田商店街のはずれにある小さなお店「薫風荘」。

女主人の薫さんから取った名前。
当時50歳くらいだった薫おばちゃんと僕と同い年の娘さんが二人でやっている店でした。

おばちゃーんと呼ぶと「あんたの親戚じゃないよ。お姐さんと呼びな」と。
二人とも気持ちのいい江戸っ子で、よく叱られたっけな。

連休明けの月曜日。

この休みに考えたことを全部伝えておきたくて、朝一番から10人ばかりを次々呼んであれこれお願いしました。
言われた方は大変だと思います。

そして僕はと言えば

窓から見えるお城より、

そのあとは、おばちゃんとのアレコレを・・

薫さん。あなたのことを・・今、思っています。

『ラストダンスは私と』

In Categoryヒコヒコ日誌
By田中和彦

一ヶ月間に及ぶ新入社員研修の最終日が、僕の担当。

放送局の明日!…みたいな事を聴かされても詰まらないだろうと、
ラジオドラマ「ソローキンの見た桜」を聴いてもらい、ここが明治松山人の誇りなんだよと、ロシア兵墓地を見学。

そして、パスタを食べにイタリアンレストランに。

人事部に提出する研修リポートには「空の上ならともかく、地上でやってやれない事はないんだ」…という金丸信の名言。
それだけ社長に教わりました…と書いといてね(笑)。

そうお願いしての打ち上げランチです。

“いろんな子とダンスをしてもいいけれど、最後は私と踊ってね”
60年代の古き良き時代のドリフターズの名曲「ラストダンスは私に」
今日はトニーデフランコ&デフランコファミリーで賑やかに聴きたい気分です。

※「Save The Last Dance For Me / ラストダンスは私に」The Drifters(1960年)
  1974年にDefranco Family がカヴァー